青山正明二十三回忌に寄せて

 6月17日は青山正明の祥月命日にあたる。青山は2001年に亡くなっているので今年は二十三回忌にあたる。昨年、村崎百郎が十三回忌をむかえたが、鬼畜系の周忌が続く。

 青山は晩年の数年間は沈黙状態にあったので、全盛期の活躍から四半世紀以上が経った。私は村崎百郎論ですばるクリティーク賞を得てから、いくつか鬼畜系に関わる仕事をしてきた。昨年8月にはDOMMUNEでの村崎特集に出演し、今年2月には書籍化もなされた「鬼畜ナイト」が開かれたロフトプラスワンで総括を目指すイベントを企画し司会も務めた。その過程で青山や村崎と直接親交があった関係者に話を訊き、多くの新証言、新事実が明らかになりつつある。要検証の内容もあるとはいえ、鬼畜系サブカルチャーの多面体を感じられるものだ。青山や村崎は最後の数年間、これまでの人間関係が大きく変わっている。村崎のケースでは当人にとって見に覚えのない一方的な絶縁宣言を突きつけられもしたという。ある時期の青山や村崎の姿を追うだけでは全容は捉えきれない。

 青山の遺作は1999年発行の『危ない1号』(データハウス)第4巻「特集青山正明全仕事」だ。これは青山が80年代のエロ本に書き散らかしていたコラムをまとめたアンソロジーだ。「全仕事」と言いつつも、網羅性は低く、本当に危険な内容の原稿は掲載されていないようだ。ロフトのイベントでは永山薫さんが青山が5つくらいのペンネームを使い分け、1つのエロ本のあちこちに原稿を書いていた逸話も披露された。この変名までを含めて青山の全原稿を補足できれば、かなり貴重な記録になるだろう。

 青山のパーソナリティーを知るにあたり、これまで参考にされてきたのは吉永嘉明『自殺されちゃった僕』(飛鳥新社/幻冬舎アウトロー文庫)だった。ところが、何人かの関係者の証言を照らし合わせるに、吉永の青山に関する記述に関してはかなり信憑性が低く、吉永のバイアスが強すぎるきらいがある。見解の相違や「1を100に」くらいはライターの表現の範疇だとしても、まったく存在しない事実を「0を100に」して書いている部分すらありこちらは問題だろう。

 吉永は青山や村崎に比べれば凡庸な人物である印象を受ける。それでも、凡庸であるからこそ編集作業などの実務を担い、鬼畜系の屋台骨を支えた存在であるように思う。『危ない1号』で吉永が担当した渡辺文樹や山野一へのインタビューを読むと、自分では到達できない表現を行う彼らに畏敬の念を抱く文化愛好者(ディレッタント)としての吉永の姿が浮かび上がってくる。内容に瑕疵があるにせよ2004年に単行本が出た『自殺されちゃった僕』は鬼畜系総括の端緒に位置づけられる書籍だろう。鬼畜系はこの本によって終焉し、総括のタームに入ったと言える。

 もうひとつ鬼畜系の終焉を象徴するトピックが1999 年の『危ない28号』の廃刊だろう。『危ない1号』の実質的後継誌だが5号で終わった。誌面に載ったある情報を参照にした事件が起こったためと言われるが、ほかの複合的な理由も存在するようだ。28号の編集長だったくられは『マンガ論争26』で「有害図書指定と言論統制」を巡る鼎談に参加し、データハウスのデスクがもともと青山のものであり、引き出しに危ない置き土産が残されていた逸話を語っている。「1号」と「28号」の間も鬼畜系のミッシングリンクだろう。

 青山は出版業界を中心に多くの人と関わりがあった。その交遊録の一端はばるぼらによるWEBスナイパーの連載「天災編集者! 青山正明の世界」でうかがい知れる。かつて会ったベテランエロ本編集者は親しみを込めて青山を「セイメイさん」と呼んでいた。青山はエロ以外の仕事もしている。阿部嘉昭は80年代にビデオソフト紹介の仕事を行っておりレビュワーの一人であった青山と知古を得ている。浅羽通明は青山の横須賀高校の2学年上であり、お互い出版業界に入ったあと話した経験があるという。昨年亡くなった小田嶋隆も青山と依存をめぐり対話を交わした経験を記していた。こうした細かい交わりを拾い証言を補足してゆけば、吉永史観に収まらない青山正明像が浮かび上がってくると思う。

 何より今もっとも証言が求められるのはデータハウスの鵜野義嗣社長だろう。村崎百郎の館がある伊豆のまぼろし博覧会のセーラーちゃんとしてもおなじみだ(両者が同一人物である事実を知らない人もいるようだ)。青山の編集プロダクション東京公司はある時期から、データハウス専属(実質的な吸収合併か)となってゆく。私はかつて雑誌編集者をしていたが、編集者の先輩から出版社(版元)と編集プロダクション(編プロ)の関係は「メーカーと工場のようなもの」と聞かされていたし、現在もそうした側面は強くある。だが、データハウスと東京公司の関係はそうした関係性では片付けられないものがあるように思える。鵜野社長は鬼畜系については取材を受け付けていないと聞く。それでも強い取材拒否ではなく、伊豆まで行けば話には応じてくれる。私もいくつかの話を聞いた。木村重樹さんは『ウィッチンケア』第12号に「2021年「まぼろし博覧会」への旅:鵜野義嗣、青山正明、村崎百郎」を寄稿している。

 青山は2001年に亡くなったが、コンピュターやインタ―ネットとの切断線も気にかかる。木澤佐登志は『闇の自己啓発』(早川書房)で青山が精通していた「ドラッグ、児童ポルノ、神秘思想、テクノ」といった要素を挙げ「なぜ青山正明は神秘思想はニューエイジに関心を持っていたのにインターネットにハマらなかったのか」と疑問を示す。海外では「ニューエイジからサイバースペースにすぐつながっていく傾向」があるのに対し、青山の行動には「日本の特殊性があるのかもしれない」と指摘する(p.40)。木澤が考える通り青山のふるまいはきわめてドメスティックである。それは村崎も同様だ。

 村崎は編集者時代に海外小説の翻訳を手がけながらも、自身はパスポートを持たず海外渡航歴は一度もなかったという。青山も関わっていた旅行雑誌『エキセントリック』(全英出版/中央法科研究所)や『別冊宝島』(宝島社)で海外取材は行ったが、晩年は家へ引きこもり海外への興味を喪失していったように見受けられる。

 村崎も青山も編集者やライターをしていたのだから常人以上の知的好奇心は保有していたはずだ。さらに初期のインターネットは現在よりも混沌とした空間であり彼らの興味関心を満たす要素は無数にあっただろう。両者がネットに興味を持たなかったのは鬼畜系とネットの明確な切断線を示すものだ。ここはロフトのイベントで出た鬼畜系と迷惑系の違いにも関わってくるテーマだろう。

 それでも青山無罪とはなりにくい。村崎百郎とネットの距離は遠いが、青山の持っていた冷笑的な視線はネットの親和性が非常に高い。これは青山オリジナルの視点ではなく、80年代の価値相対主義の影響を強く受けたものだ。それを鬼畜系の分野で援用したのが青山であり、内容のインパクトや文才ゆえに悪目立ちしてしまっている。その点は村崎論同様に青山のテキストを読み直し、良質な部分が抽出される行為があっても良いだろう。それでも青山正明論の成立は不可能であるように思われる。元より青山に真偽不明なゴシップ話が多く、一つ一つに好意的な解釈を加えてゆくのは単なる牽強付会でしかないからだ。すでに見沢論の中で青山に言及している部分もある。見沢は青山をいくつものペルソナ(仮面)を重ねていた存在と見ていたが、これは正しい。それを剥がしてゆく行為は痛みを伴う暴きであり、迷路をゴールから解いていくようようなものである。

 村崎は『アウトロージャパン』第1号に(太田出版)に寄せた追悼記事「非追悼 青山正明:またはカリスマ・鬼畜・アウトローを論ずる試み」で「頼むからこれ以上お前らのシャブ畑に青山の銅像を建てるのは止めてくれ」と求めている。この青山像は現在もやっかいに残り続けている。

 青山が亡くなった2001年6月17日は日曜日であり、神奈川県の天気を調べると曇だった。その前には数日間に渡って梅雨らしい雨が続き、その後は幾日かの晴れ間がのぞいている。青山は横須賀に生まれ育ったが、ある時期に一家で横浜市内に引っ越している。この事実も知らなかった。すでに実母は亡くなり、家もないようだ。鬼畜系の全盛期から四半世紀が経過しているのだから、それくらいの変化は当然起こりうるはずだが、実感はない。ここ30年間、テレビに同じタレントが出続けているように、サブカルチャーの世界でも映画や音楽のライターの並びは変わっていない。こうした世界で、鬼畜系は今しばらく延命と浮遊を続けていくだろう。


 








 

 

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