TBSの入社試験で尊敬する人を水道橋博士と答えて落ちた話

 9月17日に高円寺のパンディット(Pundit')で行われた、松本哉×水道橋博士『世界マヌケ反乱の手引書 増補版』(ちくま文庫)刊行記念イベントへ参加した。
 松本さんとは古い知り合いであり、水道橋博士さんも長年のファンとあって、これは行かずにはおられなかった。イベントの内容は10月1日までアーカイブで視聴が可能だ。

 パンディットは初めて訪れたが、怪しい雑居ビルの2階にあり、近くにはリサイクルショップの素人の乱もある。スペースは学校の教室を一回り小さくしたような感じで、出演者と参加者の距離が物理的にも精神的にもとても近い。
 イベント終了後、博士に同人誌『鬼畜系サブカルの形成過程における制作者の役割に関する実証的研究』を渡す機会があった。もう一つ、過去の博士の日記をプリントアウトして持参した。この件は博士にも日記で触れていただいた。

久々に「エクスプレス」の高田卓哉さん、
「今、入社試験やってるんだけど、
 尊敬する人が水道橋博士って学生がいたから……
 ……落としてやったよ」と。
そういうものだ。

水道橋博士Official Blog「博士の悪童日記」2003年6月16日より

 およそ20年前、TBSの入社試験で私は尊敬する人を浅草キッドの水道橋博士と答えて落ちている。面接の最後に面接官だったテレビプロデューサーから「あのさ、尊敬する人とかいる?」と訊かれ「博士」と答えたら大爆笑された。「あの人は頭の回転がすごく早いですよね」と訊ねると、プロデューサーは「早いね。すごく早い」と納得の様子だった。面接官はベテランクラスの人間と若手の人間の2人組だった。これはマスコミの面接ではよくあるパターンだ。一応、記しておくに「博士」と答えたから落ちたのではなく、原因は明らかに私の実力不足である。
 面接は6月に行われた。連絡の電話でスーツは着てくるなと言われたので、私服で行った。当時は金の節約のため原付で移動していたのだが道に迷い、到着時間がギリギリだった思い出がある。
 面接会場にはコントのキャラクターみたいな業界人がたくさんいた。ものすごく不遜な感想なのだが、作っているテレビ番組は一番つまらないのに、なぜ中の人間の見た目は一番面白いのかと感じ、それを友人に話すと「俺のテレビのリモコンも6チャンネルが一番すり減っていない」と共感された。
 就職試験では、ほかの局にも面接に行った。代々木の放送局は、受信料を払っていないのに面接へ行き、そこを突っ込まれたらどうしようと思案していたが、一次面接を受ける大量の人間の素性をそこまで調べるはずなどない(正確には受信料不払いではなく契約拒否)。面接官は50代ぐらいのおじさんで、途中から採用候補者とはみなされていなかっただろうが、若松孝二や足立正生、鈴木清順なんかの話をした。エントリーシートに「真夜中の王国」(NHK BS-2)の話を書いていたためか、最後に「君はあれだね。サブカルチャーだな」と言われた。
 汐留のテレビ局は当時は、新卒と既卒を2年分の人材を採るシステムを行っていた。新卒時はエントリー期間が過ぎており、卒業直前に、早くも次の採用試験が始まったので面接を受けに行ったが「このまま就職できなかったらどうするのか」と至ってまっとうな質問しかされなかった。
 お台場のテレビ局は、新卒時にエントリーシートが通り歓喜したのだが、2chを見ると同じく通過者の小躍りが散見されるも、既卒のマスコミ就職浪人生が「筆記会場に行ったら嫌になると思うぜ」と書き込んでいた。試験会場は原宿の代々木ゼミナールで、駅から着慣れないスーツ姿の学生があふれていて、実際に嫌になった。1万人くらいエントリーして、筆記は8000人くらいが受けるようだった。次の年も受けたが、オンラインの筆記試験が通り面接に行く。私服で受けに行ったが5人組の面接で落ちた。会場には新入社員が「兄さん」「姉さん」的に受験者に話しかける演出が用意されており、私も少ないながら言葉を交わした。面接が終わって弁当と酒を買ってお台場の海岸線で飲む。
 この場所はハガキ職人をしていたラジオ番組『U-turnのオールナイトニッポン』(ニッポン放送系)のイベントで8年前に来ていた。イベントはキャンプ(鍛錬)なのだからカラーバットを持ってくるようにと土田晃之さんが呼びかけていたので、家のバットを新聞紙にくるんで持っていった。同じような人間が集まっていたので「君ら何でバット持ってるの」と見知らぬ人に話しかけられもした。このイベントは3月31日に行われた。中学校を卒業していたのだが、私のいた千葉県では転出する先生を見送るために登校するならわしがあったので、それに参加してから慌てて家へ戻りお台場へ向かった。行く義務はないのだしブッチしても良かったのだが、その勇気がなかったのが悔しい。
 六本木のテレビ局は今の新社屋ができる前だ。こちらも到着が時間ギリギリになってしまった。エレベーターに乗るのだが、止まる階がエレベーターごとに違うものであり、別の階に出てしまった。慌てていると「どこへ行きたいの」と長髪のイケオジ風局員から声をかけられ「下です」と言うと非常階段に案内してくれた。この局の面接でも、好きな人を訊かれて博士の名を出した記憶がある。面接官は若手のスタッフ2人組だった。この局は当時は4番手だったが、のちに2番に躍進する。やはり勢いはあったのだろう。
 普通、マスコミ就職を志望する者は大手のテレビ局をあっさりと落ちたのち、地方局や制作会社などを受けてゆくのだが、私はそれをしなかった。制作会社は激務薄給と余計な予備知識が入っていたのもある。毎週録画していた『NONFIX』(フジテレビ)を作っていたテレビマンユニオンは一度受けた。ここは最初の面接は通るも、次の面接で落ちた。
 中学の終わりから高校にかけてAMラジオでハガキ職人をしていたため、ぼんやりと放送作家志望ではあったのだが、スクールなどには通ってはいない。ある無料のセミナーに行った時に、ゴールデン番組を手がける現役のある放送作家が「君らは吉本のNSCの作家コースが40万かかるから、ぼったくりだとか思ってるだろうけど、まずその選択肢を取った人をバカにすることはやめよう」と話し出した。このセミナーは書類選考もあったのだが「ちょろっと何か書いて俺は認められた、センスがあると思ってるだろうけど、そのハードルもまず下げよう」とも話していた。これは今にしてみればとても優しい言葉のように思う。
 このころは、ネットで知り合ったフリーのラジオディレクターの手伝いも行っていたが、はじめから無給を提示された。あるコミュニティラジオ局へ行くと、大学を中退してNSCの作家コースを卒業した人がいた。その人はとにかくギラついていた。私はCDの選曲を担当していたのだが、放送前の打ち合わせで曲を紹介するたびに一言メモみたいなものを挟んでくる。しかし、その知識と情報はちょっとずつ違っているものばかりだった。それでもWikipedia日本語版が充実する前なので、どこからか主体的に情報を吸収する姿勢はあったのだろう。
 出版社も大手のほか名前のあるところを受けるも、編集プロダクションは網羅的に受けてはいない。あるサブカルチャー系の出版物を手がける編プロは、やはり二次面接で落ちた。面接の前に、簡単な漢字テストの書き取り「拉致(らち)」が出題されていたのは時代だろうか。
 その後、縁あって小さな出版社にアルバイトで入社する。これは運が良かったとしか言いようがない。当時、会社の業務が急拡大しており、おおよそ誰でも良いから来て欲しい状態だったためだ。私は少しライター業をしていたので経験者扱いで、横入りのような形で入れた。普通はアルバイトでも落ちる場合もある。
 今回、20年越しの水道橋博士ご本人への「これは私です」報告が実現した形だが、タイミングも場所も必然だったかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?