『キリエのうた』鑑賞ノート

・岩井俊二『キリエのうた』を観た。いろいろと思うところがあったのでネタバレ含みでメモを記す。岩井俊二は新作が公開されるたびに、映画館で観てきたが、毎度のように不満を覚えるので良い観客ではない。それでも観るのは、やはり岩井俊二という映画監督が自分の中で大きな存在であるからだろう。
・岩井俊二は現実のようで現実ではない巧妙なフェイクを作り出す。それがもっとも成功しているのが『スワロウテイル』であろう。『スワロウテイル』は日本へ金を稼ぎにやってきた不法移民たちの群像劇であり、アジアの怪しい路地裏の風景が出てくる。この映画を作るにあたり、タイのバンコクや台湾の台北など、いくつかの街がロケハンされ、最終的に香港での撮影が構想されていたとどこかで読んだ。ところが、当時の香港は市街地に空港(啓徳空港)があり、数分に一度のペースで飛行機の音が響き、市街地上空を通過する。さらに横に伸びる袖看板やネオンといったアイテムは、架空のアジアの都市ではなく香港でしかないものとなってしまう。そこで、千葉県浦安市の埋立地にイチからセットを組み立てられた。『スワロウテイル』を細かく見ると、遠くに明海大学の校舎が見える。さらに映画の冒頭と最後に映る都市の空撮映像は千葉市だ。千葉を通し架空の、擬制の東京が浮かび上がる。『リリィ・シュシュのすべて』の舞台となった北関東も、固有のどこかの街ではなく、全国のどこでも代入可能、ファスト風土化(三浦展)を示す映画だ。『四月物語』で上京する卯月(松たか子)の上にあそこまでの桜吹雪は舞わない。
・岩井俊二は映画監督でありながら、旧来の業界の慣習であっただろう助監督から始まる厳しい徒弟制度を経ていない(テレビドラマである『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』で日本映画監督協会の新人賞を受賞する。この時の理事長は大島渚だ)。ミュージックビデオのディレクターとして映像のキャリアをスタートさせている。ビデオをフィルムの質感で撮る作風を作り上げた。これも巧妙なフェイクだろう(もっとも現在は、デジタルとフィルムの違いは相当な目利きではないと判別がつかないレベルのものとなっているようだが)。
・フェイクを作り上げることに長けた作家が、現実にあった東日本大震災を取り上げたのが『キリエのうた』になる。この試みは成功しているのだろうか。岩井は高校時代までを宮城県仙台市で過ごし、故郷が被災地となった。さらに『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』の舞台となった千葉県の飯岡町(現・旭市)も津波被害を受けた。さらに『スワロウテイル』で夜ごと移民たちが集うコミュニティ「あおぞら」が作られた浦安の埋立地も液状化現象で被害が生じている。
・キリエ/路花(アイナ・ジ・エンド)は東日本大震災で被災し、母の呼子(大塚愛)と姉の希(キリエ、路花は亡き姉の名を音楽家として名乗る/アイナ・ジ・エンドの一人二役)を失う。高校生だった姉は一学年上の恋人であった夏彦(松村北斗)の子供を宿す。十代の高校生の妊娠をキリスト教徒であった呼子は受け入れる。生きていれば反対したであろう父親は海の事故で亡くなっているとされる。震災発生後、姉は妹を探して街中をさまよい、再会を果たす。その後、姉は津波に流されるが、キリエは木に捕まり助かった(この場面は描かれない)。家族を失ったキリエは、一度だけ会った夏彦が大阪の大学へ進学する話を憶えており、大阪行のトラックに乗り込む。キリエは大阪で、その場所が安全であり、安心できるからと木の上にいる謎の少女となり、教え子から存在を教えられた小学校教師の風美(黒木華)に保護される。このあたりの展開がどうにも都合が良すぎるように思われた。家族を失った子供が単独で大阪へ行けるのか。震災をフィクションの題材として扱う行為は是認されるとしても、物語の作り込み方が適当すぎるのではないか。
・キリエと対をなす少女、イッコ(広瀬すず)は広澤真緒里という本名を捨て東京で⼀条逸子を名乗る。場末のスナックを切り盛りする楠美(奥菜恵)を母に持ち、常連客であった牧場経営者の啓治(石井竜也)が、楠美に求婚し、イッコの大学進学資金の援助を申し出る。従業員であった夏彦を家庭教師に派遣し、キリエを妹として紹介され、イッコとキリエが出会う。大学へ合格するイッコだが、楠美と啓治の関係が破綻。イッコは大学へは通えなくなるが、東京でその日暮らしを続ける。イッコは青いウィッグをかぶる奇抜な格好をした謎の人であり、一見すると人脈も金回りも良いように見えるが、実は荒手の結婚詐欺師であった。イッコの姿は、夢追い人のフリーターであり、港区女子あたりもモチーフも重なる。
・『キリエのうた』には過去の岩井作品のモチーフが反復する。ミュージシャンであるキリエ(アイナ・ジ・エンド)がアマチュアからプロの世界へ足を踏み入れようとし、それをマネージャーとして支えるイッコの姿は『スワロウテイル』のグリコ(CHARA)とフェイフォン(三上博史)の姿だろう。開業医の叔父を持つ夏彦は『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』の祐介(反田孝幸)だろう。ルカ=キリエの一人二役は『Love Letter』で博子/樹(中山美穂)を思い起こさせる。
・『打ち上げ花火〜』のヒロイン、美少女であるなずな(奥菜恵)は『キリエのうた』場末のスナックのおばちゃんになっている。「女を売りにするような仕事はしたくない」と娘のイッコに言わしめるが、やがてイッコも結婚詐欺師となりその人生は反復する。岩井は『ラストレター』でも『undo』の由紀夫(豊川悦司)を無職で酒浸りの男、阿藤として出演させ、その恋人役のサカエに中山美穂を据えている。それぞれの作品は独立したものであるとはいえ、どうにも残酷に見えてしまう。
・『キリエのうた』で、キリエとイッコが海へ向かう場面。降り立った鉄道駅は千葉県の総武本線の松尾駅だ。『打ち上げ花火〜』でなずなが典道(山崎裕太)と東京への駆け落ちを企てる飯岡駅は改装され新駅舎となっている。かつての飯岡駅が無くなったので、近くの松尾駅で、となるのも妥当な選択肢であったのだろうかと疑問は浮かぶ(これは巧妙なフェイクではないだろう)。
・『打ち上げ花火〜』の舞台は小学6年生が過ごす夏休みだが、なずなの実年齢はほかの子役たちより1~2学年上だ。この時期は、男子より女子の方が平均身長が高くなる。女子のほうが精神的に成熟しているので「男子がぁ〜」現象が起こる。以前目にした学年誌で『小学五年生』(小学館)で女子向け特集が「アクセサリー」であったのに対し、男子向け特集が「カブトムシ・クワガタ」であったのは象徴的だ。なずなは大人びた少女役として設定されている。今、Wikipediaを見たら、なずな役の最終候補に伊藤歩がおり、彼女は『スワロウテイル』に出演したとある。アゲハも、子供でありながら過酷な現実を通して否応なしに成長を促される存在として描かれる。岩井作品には「子供っぽい大人」か「大人っぽい子供」が頻出する。
・『キリエのうた』に関するネット上の感想で「公務員を敵視しすぎている」なるものがあった。大阪で保護されたキリエは、風美はもちろん姉の恋人である夏彦も「血縁や縁戚のない他人」であるため行政によって引き離される。やがてキリエは夏彦が働く北海道の牧場近くの高校へ進学し、夏彦の家へ入り浸るが、里親からの抗議を受け、保護司がやってきて「これは誘拐になる」と警告を受ける。成人しミュージシャンになったキリエのまわりには、彼女の才能に惚れ込んだ仲間が集まり、フェスを開くが、許可証がないからと警察官が止めに来る。岩井作品では公務員は登場人物たちの夢を壊し、現実を押しつける存在として描かれている。『スワロウテイル』の移民たちが社会のアウトサイダーでありながら(あるがゆえに)強き存在として描かれる世界(それは中上健次の「路地」の続きでもある)はない。あるいは村上龍が『希望の国のエクソダス』や『半島を出よ』あたりで描く、アウトサイダー/子供たちの勝利に至るまでのフィクションへの振り切れもない。
・『スワロウテイル』を今見れば、かつて日本がまぎれもない先進国であり、現在は中産国となった現実を知覚できるだろう。35ミリフィルムで観てみたいのだがなかなか機会に恵まれない(日大芸術学部の学生主宰の映画祭「移民とわたしたち」で上映されるが、こちらはブルーレイだ)。
・『キリエのうた』の上映時間は178分と長い。岩井ワールド特有の映像美もあるし、何より広瀬すずが圧倒的に美しいのだけれども、拭えない違和感はある。その理由は社会が変わったのか、私が年齢を重ねたのか(私は岩井の出世作となった『打ち上げ花火〜』のテレビ放送をリアルタイムで観ている。さらに映画内で出てくる小学生たちと同学年だ)、岩井俊二が変わったのか、そのいずれか、あるいはすべて、なのだろうとは思う。あとは表現のアウトプットは、すぐれたフィクションの作り手である岩井俊二ですらも、過去作のサンプリングの組み合わせのような形に結実せざるを得ないのかなとも感じた。

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