山形日記

 10月に山形国際ドキュメンタリー映画祭へ参加した。映画祭は隔年開催だが、前回はコロナ禍のためオンラインとなり、実地は4年ぶりとなる。鑑賞と行動の記録を残しておく。

・10月5日木曜日
 昼前の山形新幹線に乗る。自由席が無くなり全席指定になっていた。あっという間に福島に到着し、やがて山形駅へ到着する。開会式後のオープニング上映『Ryuichi Sakamoto|Opus』は、死の約半年前、坂本龍一の最後のスタジオ演奏映像が収録されたドキュメンタリーであり、実子の空音央が監督を務める。アジアでは初上映となるため、事前に整理券が出ると告知されていた。すべて埋まることはないだろうと思ったが改札前に設置されたインフォメーションセンターではすでに整理券配布終了のお知らせがある。
 福島を出たあたりから雨が降ったりやんだりを繰り返していたが、山形ではちょうど晴れ間が覗き虹が出ていた。4年前に訪れた飲み屋の現存を確認のち、宿へ向かう途中、線路を超えてビッグボーイ山形城南町店でランチを食す。ビッグボーイはアメリカ発祥のファミレスチェーンだが、東北を中心に展開していたミルキーウェイと合併したため、東北にもいくつかの店舗がある。かつては3種類のスープバーがあったが、今は1種類はカレーバーになっていた。1時間ほどで出て、東京で買い忘れたメモ用のトラベラーズノートの罫線リフィルを探し、Google Mapsで見つけた文具の島くまがいへ向かう。駅前ビルの書店兼文具屋にはなかったが、こちらは専門店のためかトラベラーズノートも揃えていた。その後、再び降り出した雨を縫いながら、宿へチェックインする。今回は老舗ホテルの別館のような場所で、マンションをそのままホテルに改装したような作りだった。
 映画祭は山形市内のいくつかの会場に分かれて上映が行われる。メインはショッピングモールビルの上階に入っている山形市中央公民館ホールと、そこから徒歩10分ほどの山形市民会館、そこに隣接する映画館のフォーラムだ。移動時間を含めて鑑賞スケジュールを組んでいく。今回は公民館ホールのすぐ近くの宿だった。
 会場へ行くと、ちょうど監督のインタビューとマスコミ向けの写真撮影が行われているところだった。満席になったホールは初めて見た。2階部の階段に腰掛けて作品を観る。編集の切れ目は最低限のものだけで、流れるように演奏が続ているように見える。映画が終わると拍手が続く。ホールに立つ監督を目にしたがやはり父親に似ている。階下の図書館の窓際に並ぶデスクで充電をしながら原稿作業。今回3つの原稿締切が重なったので、作業をこなしながらの映画鑑賞となる。21時30分に閉館のため時間切れとなり、ラーメン店の赤鬼へ。以前、地元の飲み屋に入った時に教えてもらった店で、繁華街(といってもこぢんまりとしたものだ)の中にあり最後に立ち寄るシメの店といった佇まい。宿に戻っても2時くらいまで原稿を書き、その後ローソンに酒を買いに行く。宿は徒歩圏内にローソン、ファミリーマート、セブンイレブンがあるのは都合が良い。ただしスーパーがないのは難点だ。

・10月6日金曜
 朝起きて、フォーラムまで歩き『地の上、地の下』(エミリー・ホン)ミャンマー北部に中国資本によりダムが建設されようとしている。賛成派の住民は米や仕事を与えるが反対派は嫌がらせるを受ける。軍事政権下のミャンマーの若者、反体制派たちの群像が眺められるものだった(ほかのミャンマー出品作にも同様の作風があった)。
 映画祭ではいくつかの特集が組まれる。「インターナショナル・コンペティション」は有名監督の話題作などが並び、東京のミニシアターでもかかるかなという作品もある。インドネシアで起こった共産主義者たちに対する弾圧、虐殺の加害者の実像に迫ったジョシュア・オッペンハイマー 『アクト・オブ・キリング』もかつて山形でかかっていた。「地の上、地の下」が上映されるのは「アジア千波万波」という枠で、小川紳介がアジアの新進気鋭の若い映画作家に発表の場を与えるべく作られたものだ。「美大生の習作」のような内容もあるのだが、東京のミニシアターでも見られないものであるし、アジアの生活や風景も映り込んでいるので心地よい作品もある。
 フォーラムで『ホームストーリー』(ニダール・アル・ディブス)コロナ禍で自宅へとどまることを余儀なくされた監督がシリアのダマスカスの自宅で娘の身辺雑記を撮影しつつ、エジプトのカイロにあった映画館の記憶を探る断片が挟まれる。路地の老人たちに映画館の記憶を訊ねてゆく。コロナをモチーフとする作品は映画祭全体に多く見られるものだった。
 中央公民館へ移動して『訪問秘密の部屋』(イレーネ・M・ボレゴ)表舞台から姿を消し、人との交流を拒む、老いた前衛女性画家のもとを姪が訊ねる。インタビューの途中、険悪な空気となり撮影が中断する様子などもそのまま繋がれる。上映後の質疑で「劇映画のように撮られたドキュメンタリー」の指摘があったがまさに。
 同会場で『ホワット・アバウト・チャイナ?』(トリン・T・ミンハ)今回の期待作の一つであったのだが、ちょっと微妙だった。メインの素材は、約30年前に建築に興味を持っていた彼女が中国の客家土楼(はっかどろう)を訪ねた際の8ミリビデオテープだ。客家土楼は元祖マンションというべきドーナツ状の集合住宅で、すでに30年前の時点で観光名所となっており人々はそれで収入を得ている様子だった。都市部のキッチュな字体の看板なども映り込みビジュアルはとても良いのだが、音楽がまるでダメだった。御茶ノ水にあったレンタルレコードショップの「ジャニス」でアジア圏のワールド・ミュージックを集中的に聴いていた時期があり、そこでタイの伝統音楽であるルークトゥンやモーラム、さらに紹介者たるsoi48といった名前を知っていった。そこから、エスノ・トライバルテクノといった棚に手を伸ばしたのだが、欧米人から見た神秘のアジアみたいな音ばかりでまったくハマらなかった。外国にジャパニーズレストランかカフェがあって、イージーリスニングで日本っぽいのだが、何か違う音楽がかかっているようなものをイメージしてもらえば良いだろう。本作の音楽もまさにそういったものであり、欧米人が見たエキゾチックアジア風ムード音楽がかかる。監督が音楽を付けたわけではないのだろうが、最終的にこういう演出が是とされてはいる。彼女は1953年にベトナムのハノイで生まれ、17歳でアメリカに移住している。50年以上アメリカに住んでいるわけなのだから、ルーツはアジアであっても、もう彼女はアメリカ人なのだろう。アマルティア・センもインド国籍を保有しているとはいえ、もう70年くらいアメリカに住んでいる。トリン・T・ミンハにはアフタートークの会場で著作を差し出すと、為書き入りでサインをもらえた。
 モスバーガーを経て、宿で原稿作業を続ける。

・10月7日土曜
 朝起きて、市民会館の小ホールへ移動し野田真吉特集へ。山形では毎回、作家やテーマごとの小特集も行われる。すべて観たいところだが、今回はニュープリントがなされた『原爆許すまじ:1954年日本のうたごえ』『松川事件:真実は壁を透して』『京浜労仂者1953』『1960年6月:安保への怒り』を眺める。先日『現代思想』(青土社)の臨時増刊号「総特集:戦後民衆精神史」をやっと読んだところなのでタイミングも良い。私は戦後史で言えば60~70年代文化に興味があるが、その萌芽というべき世界をのぞく。
 フォーラムで『それはとにかくまぶしい』(波田野州平)、『GAMA』(小田香)の2本立て上映を目指すが、映画館の外まで人があふれている。『それはとにかくまぶしい』もコロナ禍の身辺雑記なのだが、ごく短い映像がランダムに繋がれる。『GAMA』はこれまでの小田作品のアプローチとは異なり、沖縄のGAMAの中で語り部を行う男性が話し続けるもの。上映後の質疑では自分の映画が、この男性の存在感に叶わなかったみたいな話をしていたが、そういう姿は現れている。小田香は『鉱 ARAGANE』を2015年に山形で観ている。冒頭、鉱山に降りる地下トンネルの描写が続き、インダストリアル・ノイズが響く。この時点で会場を出ていく人が何人かいた。私はボアダムズなどを聴くのでこうした映像は好みだ。観終わると、前回の映画祭で合った U子さんがいた。好みは似るのだなと驚く。
 山形国際ドキュメンタリー映画祭に初めて参加したのは2013年だ。当時、大学院に籍があったので新幹線では2割引の学割が使えたので行ってみようと思ったのだ。大学院は月曜日と木曜、隔週の土曜に授業があったが、映画祭の開催時は三連休となり、月曜の授業がなく、土曜も空いていたので都合が良かった。直前に行くと決めたため宿がなかった。調べると市の中心部から2キロほど離れた幹線道路沿いにマンガ喫茶があるようだ。映画を見終えてマンガ喫茶へ行こうとした時に年上のU子さんに話しかけられる。映画祭の参加者は首からホルダーをかけているのでわかりやすい。そのままカウンターの飲み屋に入り、瓶ビールと地元名産であろう舞茸の天ぷらをいただく。この年、山形のテレビでは92歳のおじいさんが山菜採りに入って一時行方不明になるニュースを目にしたが、数日後に発見されていた。東北出身の友人に訊くとこの時期の「あるある」なトピックではあるようだ。U子さんは関西からバスに乗って山形まで来ていた。1989年が第1回開催だが初期から参加しており、昔は質疑応答でバッチバチに詰められる監督や、河原沿いにテントを張りながら映画祭に通う人もいたという。そう言えばU子さんは今回も、その前の17年も見かけていないがどうしているのだろうかとも思う。
 2013年はU子さんと飲んだあとマンガ喫茶へ行った。その途中立ち寄ったセブンイレブンで自分が編集人を務めたコンビニコミックが置かれていた。1年以上前の発行だが、地方の店にはまだ置かれているのに驚く。コンビニ流通の雑誌はファミリーマートやローソンなどにも置かれるが、全国区で見れば圧倒的にセブンイレブンに軍配が上がる。このコンビニ本を読んで何かの影響を受ける青少年もいるのだろうかとも思いをめぐらせる。マンガ喫茶はフラットシートは埋まっていたので、限りなくリクライニングができる席で眠った。
 『それはとにかくまぶしい』『GAMA』のあとは、なおもフォーラムで『我が理想の国』(ノウシーン・ハーン)インド国内で起きているイスラム教徒迫害に迫る作品。2019年の『理性』(アナンド・パトワルダン)ではインド国内で勃興するヒンドゥー・ナショナリズムの実態に迫る作品だったが本作も地続きのものだ。インドの地名は2001年にカルカッタがコルカタに、95年にボンベイがムンバイへと英語からヒンドゥー語の読みに変わった。これは脱帝国主義、脱植民地主義であり民族自決でもあるので良いことだと思っていたのだが、単純な見立てにすぎない。ヒンドゥー的なものの復興は、カースト制度の顕然化であり固定化となる。カーストの身分が低い人々を堂々と差別する根拠を与えてしまう。『理性』で出てくる大インド主義は、インド、パキスタン、バングラディシュを含めた地域ばかりでなく、タイやベトナムなど東南アジア全域も「すべてインド(文化圏)である」と主張する。インドシナの名はindiaとchinaの中間領域の意味合いがあるが、タイもベトナムもインドというのはちょっと無理があるだろう。インド国内の各駅には「聖なる何とか〜」の長ったらしい副題が付く。ヒンドゥー至上主義が、人口14億の大国の中にいる2億人のマイノリティであるイスラム教徒にも矛先を向ける様が描かれている『我が理想の国』は『理性』の続きとして眺めた。 
 市民会館の小ホールへ移動し『これからご覧になる映画は』(マキシム・マルティノ)コンプライアンスを重視しすぎた映画冒頭の警告の文言を皮肉るフランスの短編で良作。『イーストウッド』(アリーレザー・ラスーリーネジャード)イラン国内の新聞に載ったクリント・イーストウッドを探すロードムービー。最後はそっくりさんに出会うみたいなオチなのだが退屈な作品だった。これらの作品は「Double Shadows/二重の影 3:映画を運ぶ人々」特集の中で上映されたもの。映画史をはじめ「映画の映画」を扱うユニークな作品が並ぶ。
 再びフォーラムへ戻り『Oasis』(大川景子)こちらもコロナ禍が反映された作品、アーティストの妻と自転車ビルダーの夫の日常の暮らしと、自転車でめぐる都内の風景が交互に現れる。1時間ほどの短編でタイミングが良いためか立ち見が出るほどだった。1日中、ドキュメンタリー映画を観続けるため、最後のチルアウトとして本作を求めた人も多そうだ。
 22時すぎ、市民会館近くの飲み屋へ。10年前にU子さんと入った店だ。2年に1度しか行かず、今回は4年ぶりだが憶えて下さっていた。コロナ禍で息子はもとより孫とも3年間会えずじまいだったという。さらに施設に入っている94歳の母親は、子供である彼女の顔を忘れてしまったという。切ない。
 この日は急に冷え込んだので親芋を使った芋煮を作ってもらう。4年前は、山形名物の「だし」がセブンイレブンに売っていたがまずいと話したら、その場で500円で作ってもらい、タッパーに入れてくれた。「だし」は夏の山形名物で、野菜をみじん切りにして、とろろ昆布であえたもの。スーパーには「だしの素」が売っているという。タッパーは返却不要と言われたが、ある映画の終わりに戻しに行ったら、ちょうど店を早じまいして出るところだった。コロナ禍をめぐる東北の排他性の話もろもろを聞く。岩手県花巻市で起こった話を知らなかったので伝える。この話は柳美里が『ゲンロン11』(ゲンロン)で「ステイホーム中の家出」としてロングエッセイを記している。一部はウェブで読める
 全国の文学館や史跡めぐりを趣味とする人がいた。宮沢賢治が好きだったので、終の棲家を花巻に求めた。身寄りがなかったので、行きつけだった地元のカラオケスナックの人が保証人となった。そのままスムーズに入居となるはずだったがコロナ禍が襲った。住民が東京からの転居者に難色を示し、暫定案として元飲食店の二階に住むことになったが、その夜、火災が起こりその人は焼死してしまう。田舎の排他性といったニュースで扱われたが、この件に関しては花巻市も説明文をあげている。
 飲み屋のおばさんは山形も排他的な場所であるのだが、一度懐に入れば受け入れてくれるため、営業の仕事で山形に配属された人間は鍛えられるとも話していた。客は1人だったが途中から常連客のおじさんがやってくる。先輩とのヘヴィーな飲み会を終えやって来たという。明日、何か1つ作品を観たいと求められるので『訪問秘密の部屋』を推薦しておく。
 店を出て近くにあるメキシカンバーをハシゴ。以前、客とストラグル・フォー・プライドの話をしたこともあるディープな店だ。かといってマニアックに閉じているわけでもなく、どちらかといえばマイナー志向の人たちが集まるような店なのだろう。この店に来ていた映画祭参加者と女性客が結婚したともいう。外山恒一が地方の飲み屋めぐりをライフワークにしており、ロックバーやレゲエバーを一つの指標に掲げていた。こうした音楽を好む人たちはどちらかといえば反体制志向なので大筋の話は合う。この見立てはある程度妥当性があるように思う。東京のように細かく趣味趣向が分かれるより、メジャー、マイナー、中間くらいで飲み屋が分かれている地方の方が同好の士と出会いやすいのかもしれない。

・10月8日日曜
 朝一番で市民会館へ移動し『日々“hibi”AUG』(前田真二郎)2008年から2022年までの15年間、毎年8月に15秒×31カットを撮影、編集し120分にまとめあげた作品。作者はずっと日記映画を撮り続けてきたが、この15年の間には民主党への政権交代や、東日本大震災、コロナ禍などが挟まる。さらに作者自身が病気となり手術をする様子も記されていた。図ったわけでもない、任意の15年なのだがろうが、ここまで世界が変わるものかとも思う。
 その後の移動で鑑賞を試みたある1本が完全なる睡眠時間となってしまう。すべての映画がパーフェクトな魅力を備えているわけではない。
 続いてフォーラムで『私はトンボ』(ホン・ダイェ)韓国のとある女子校、受験を控えた高校3年生たちの姿から始まる。『サニー永遠の仲間たち』のような青春ムービーかと思いきや、そこから8年間の失業や自殺未遂などヘヴィーな話が続く。監督自身の青春への決着でもあるだろう。監督は『山形新聞』で高校生たちのインタビューに応じ、(受験が)望まない結果でも成功する道はあるといった話をしていた。
 なおもフォーラムで『ナイト・ウォーク』(ソン・グヨン)こちらも韓国の作品。音楽がなく、フィックスの固定カメラで夜の風景を捉え、手書きの古い中国詩とドローイングが重なる。静謐な映画だった。夜の音に耳をすます村崎百郎の小説『パープル・ナイト』やフィッシュマンズの『ナイトクルージング』のような世界観だろう。やはり夜は良い。 
 その後、関連イベントの「小型映画アーカイブ・ナイト」へ。時間帯がかぶる『どうすればよかったか?』(藤野知明)と迷ったが、こちらはどこかで観られると考えた。かなり評判が良かったと聞く。 
 「小型映画アーカイブ・ナイト」は9.5ミリのパテベビーフィルムの素材を世界中から集めた映像『9 1/2』が上映される。パテ・ベビーはフランスのメーカーが作った小型カメラで、ホーム・ムービーが生まれていった。撮る対象は旅先の名勝や、子供など、現在と変わらない。続いて、吉川考による発表「見てはいけない映画:ブルーフィルムのアーカイブ 」充実の内容。吉川は哲学研究者であるが、高知の大学に勤務しており、同地に「土佐のクロサワ」と呼ばれるブルーフィルム製作集団がいたと知る。これは周囲からの評価ではなく、彼らの自称であり、ブルーフィルムらしからぬ照明や編集などに凝った演出が施されていたという。このあたりの話は近刊の『ブルーフィルムの哲学 :「見てはいけない映画」を見る』(NHK出版)にまとめられるようなので気にかかる。
 ブルーフィルムは一定量が流通しながら、見ることが不可能なものだ。性行為そのものが無修正で映っているため、その内容がわいせつ物の頒布、陳列を禁じた刑法175条に反するおそれがある。個人が所有、鑑賞する分には問題はないだろうが、オークションサイトへの出品や、上映会などは不可能なものだ。だが、ブルーフィルムは映画史的には貴重な素材となる。当初は16ミリフィルムで撮影されたものが8ミリにダビングされていたが、のちに8ミリで撮影したものがそのまま売られるようになる。8ミリフィルムは複製ができないため、ブルーフィルムの撮影時には複数台のカメラを同時に回す。作品によってはカメラが異なる位置にセッティングされ、アングルによって値段が異なるものもあったようだ。その場合、8ミリで作られたブルーフィルムはすべて1点モノであり、レコードならばアセテート盤レベルの内容となる。法的な観点から見ることが不可能なのに加え、モノ自体がレアであるのがブルーフィルムなのだ。
 イベントを終え、ファミレスのビッグボーイへ移動。この店は全日深夜12時閉店のため、今後も深夜の原稿作業の場となる。

・10月9日月曜
 朝寝過ごしてしまい、ギリギリで市民会館小ホールへ向かい『キムズ・ビデオ』(デイヴィッド・レッドモン、アシュレイ・セイビン)アメリカのニューヨークに韓国人のキムが経営するマニアックなレンタルビデオ店があった。各国の大使館に掛け合い貴重なビデオ作品を借り受け、勝手にダビングしてレンタルし続けた。閉店にあたり、アーカイブの引受先を探すと、イタリアのある街が名乗りをあげた。この都市には美術評論家出身で文化行政に理解のある市長がいたが、裏でマフィアと癒着しており、市長は完全に置物だった。芸術に関わる予算はほとんど闇に消え、ビデオは活用されず、鍵のかかった倉庫に眠っている。テープを取り戻すため、監督がイタリアに乗り込むといったストーリー。映画のようなアクションでテープを奪い返すのだが、このあたりはフィクショナルな部分だろう。実際にテープはキムのもとへ戻る。地域アートのうさんくささみたいなものは世界共通のものではないかと感じる。
 フォーラムで『負け戦でも』(匿名)『鳥が飛び立つとき』(匿名)、ミャンマーの活動家たちによる映画。クソ(shit)な世界をせめて楽しんでやるといった気概にあふれる作品だった。
 『確かめたい春の出会い』(タイムール・ブーロス)、『ベイルートの失われた心と夢』(マーヤ・アブドゥル=マラク)こちらはともに中東が主な舞台で、どちらも物静かな映画だった。
 『ここではないどこか』(ミコ・レベレザ)フィリピン系移民の監督がルーツを求めアメリカからフィリピンへと渡る。ここまでは美大生の習作、ルーツ探しのようなロードムービーなのだが、最後には映像の断片、フッテージがランダムに重なってゆく。わかりやすいストーリーに回収されない部分は良かった。
 『日本原牛と人の大地』(黒部俊介)山形は「国際」と付く通り世界の映画が集まるが、ドメスティックな場所=日本にも目を向けるべきと思い起こさせる作品。2019年に上映された『東京干潟』(村上浩康)が「大地からの文明批評」と評されていたが本作もその系譜に位置づけられるだろう。
 今日もビッグボーイへ移動し閉店まで原稿作業。5ちゃんねるのサブカル板の青山正明スレッドに、青山ときわめて近しい場所にいたと思しきライターが出現し、当時の貴重な資料を次々とアップしている。画像には転載防止のためのすかし文字が入っているのが、誰がどういう意図で、なぜこのタイミングでと疑問は尽きない。30年前のFAX用紙を律儀に保存している物持ちの良さは村崎百郎を彷彿とさせ、彼が冥界から書いているような思いも起こさせるが、そんなことはまずなく、ここ数年の鬼畜系総括のタームでも現れなかった人がいたことになる。

・10月6日火曜
 昨日で三連休が終わったので山形からぐっと人が減る。市民会館大ホールで『無音の叫び声:木村迪夫の牧野村物語』(原村政樹)、小ホールで『ひのまる なだて あかい〜農民詩人、戦後70年目の旅〜』(山形放送:伊藤清隆)どちらも地元の農民詩人である木村迪夫氏をめぐるドキュメンタリーで、御本人も会場へいらっしゃっていた。山形のテレビ局員にとって当初のドキュメンタリー映画祭は、文法の異なる世界であり、近しく遠いものであったといった話を聞く。この距離間は映画祭の立ち位置を端的に浮き彫りにするものだろう。
 小ホールで『シンシンドゥルンカラッツ』(オスカー・アレグリア)40年間使われていない8ミリカメラを用いたロードムービーだが、8ミリは1ロール約3分の映像を作るのにフィルム代と現像代で30ユーロ強、日本円ならば5000円以上かかる話が出てくる。2017年の映画祭で上映された8ミリ作品『幽霊』(大西健児)では、どこかから入手した使用期限切れのフィルムで、かろうじて映る何かをつなぎ合わせたものだった(きれいには映らないが何かは映る)。そこでは実の祖母の死が捉えられていた。現像もバケツに満たした現像液にじゃぶじゃぶとフィルムを浸すもので、ネットでその様を「何かの儀式」と評している人もいた。5000円かけずとも、ジャンクに8ミリに向き合ってゆく方法もある。重要なのは、現在も撮り続ける行為にある。この年には『後ろに振り向け!』(村上賢司)も上映されたが、映画の内容より隣席のアングラ風おっさんが、ずっとキレ続けていた方が印象に残る。上映前にスタッフが8ミリカメラを回している時から「ああいうのがイケてると思ってんだよ」的なキレ方をしていた。他人の表現にキレるより自分で何かした方が良いかとも思われた。
 山形駅へ移動して、駅ビルに入る「そば処三津屋エスパル山形店」でそばを食す。ネットで映画祭会場から徒歩圏内のそば屋マップをアップしている人がおり、四方田犬彦も連日そば食写真をアップしていたので、そばを食したくなった。ただ、ほとんどのそば屋が昼休憩を取るのでタイミングが合わず、通し営業の駅前の店で食す。
 フォーラムで審査員作品上映『塩素中毒』『目指そう、明るい2050年! 食指が動くタコ足指南』監督の陳凱欣(タン・カイシン)は作風と完全に言文一致のファンキーな人だ。『塩素中毒』はシンガポールの看板はじめ消費のアイコンの連続に躁的なナレーションが重なる。断片の集積を組み合わせるセンスが好みの作品だった。
 駅前のロッテリアで原稿作業の仕上げのち、宿の近くへ戻り、行きつけの飲み屋へ。山形を歩き回っているうちに見つけたサブカルチャーっぽいノリを感ずる店で、映画祭関係者も多く立ち寄るという。カウンターには4年前に同席した夫婦と、その友人男性の3人組が同じ場所に座っていた。名物の芋煮を食す。

・10月11日水曜
 朝起きて市民中央公民館ホールで審査員上映『揺れる心』『愛しきソナ』(ヤンヨンヒ)。『愛しきソナ』は『かぞくのくに』公開時に眺めていたが、『揺れる心』はNHK大阪で放送されたテレビドキュメンタリーで初見。タバコ吸いまくり酒飲みまくりのアツい現代社会の日本人の先生が、在日の生徒に通名(日本名)ではない本名での宣言を求める。青春の記録として良い。
 市民会館大ホールで審査員上映『白塔の光』(張律/チャン・リュル)。永続する映画といった感じだった。
 上映後、レコードショップと古本屋をめぐる。古書店は山形美術館そばにある。地元の労働争議の記録集が100円で出ていたので買う。海外向けに作られた観光地紹介カードもあった。
 閉会式に途中から出てクロージング上映の『リスト』(ハナ・マフマルバフ)タリバンに再び制圧されたアフガニスタンから、弾圧を受け命の危険がある芸術家を脱出させようとリストを作成する。脱出時の人物の同定に秘密の合言葉を伝えるなどアナクロな手法も用いられていた。ロンドンの自宅から電話をかけ大使館にかけあう。交渉を行うのはモフセン・マフマルバフだ。9:11後にアフガニスタンを描くイランの作家として注目され『ユリイカ』(青土社)にも特集された。
 映画祭終わり、訪問を考えていた名物カレー屋が閉まっているので宿で原稿作業。最後の仕上げをだらだらと行う。『報道ステーション』(テレビ朝日系)がパレスチナ問題ではなく、藤井聡太勝利を延々と取り上げている。

・10月12日木曜
 今日は昨日の閉会式で発表された受賞作上映の日となる。朝起きてチェックアウトし荷物を預け中央公民館大ホール『ある映画のための覚書』(イグナシオ・アグエロ)19世紀のチリ、先住民の土地に踏み入る鉄道技師の日記をもとに、監督自身も出るモノクロの再現映像が続く。
 ランチタイムに重なったので昨日行けなかったカレー屋のジャイへ。仙人のようなおじいさん(実際に唐十郎はじめ東京のアングラ演劇シーンとも親交がある)がやっている店でスパイスカレーとチャイのセットをいただく。映画祭では新規の客が多く来歴を訊かれるので以前、インタビュー取材を受けた『スペクテイター』(エディトリアルデパートメント/幻冬舎)の「カレーカルチャー」特集を推挙しているという。
 山形の旧市街というべき町並みを抜けて、映画祭の関連新聞記事のコピーのため山形県立図書館へ。『山形新聞』には連日、関連記事があるが『朝日新聞』『読売新聞』はオープニング初日のみ。以前は『朝日』もレポート記事があったが、今はない。もう、地方の細かいトピックを追えるほど人材が配置されていないのだろうか。当日の新聞はコピー不可だったが、宿のサービスでコピーさせてもらえた。郵便局から紙資料や古本の束を送り身軽になる。
 市民会館大ホール『列車が消えた日』(沈蕊蘭/シェン・ルイラン)今の日本からは無くなってしまった鉄道の寝台車がモチーフとなる作品で、最後はノイズミュージックみたいな流れになる。上映後「午後のまどろみ前提で観る映画ではないか」「本来なら字幕を追う作業も作品を捉えるにあたっては夾雑物となりえるのでは」といった感想が聞こえてきて、確かにそうだよなと思う。
 山形の出品作にはいくつかの傾向があり、1つは東京のミニシアターでもかかるだろうなというもの。2つは難民や差別といった社会問題を取り扱ったもので、大学のシンポジウムなどで観られそうなもの。3つめは山形でしか観られないだろうし評価を受けないであろうきわめて抽象度の高いアブストラクトなもので『列車が消えた日』はまさに3に該当する。映画を終えると会場の書籍売店がすでに撤去されていた。営業は15時半までのようだ。最終日はもうボランティアの大学生がちらほらといるくらいでほとんど人がいない。祭りの終わりのような姿がある。ファミリーマートで時間いっぱいまで機器を充電し、米沢行の列車に乗る。高校生が多い。

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