飽き性でも続いているのは理由がある。

 久しぶりにアニメを一気見をしたとき、今までモヤモヤしていた部分に答えが出た気がした。私が中学生から唯一続けている趣味がDTMで曲を作ってみたり、編曲をしたりすること。たまに、飽き性の私がこれだけが続いているのって不思議だな思うくらいだ。

 そのアニメの台詞で「自分の力が120パーセント発揮された時の快感が全て」というセリフを聞いたときにハッとした。そんな120パーセント力が発揮されたとまではいかないが、確かに好きな事とか趣味には多少の快感の経験があるのだと思う。

 飽き性の私が音楽だけは惰性でも続けているのって、考えてみれば中学生から高校生までバンドを組んでいて、文化祭のステージにも立っていたし、中学生の時も高校生の時も学校内では比較的人気のあるバンドだった。私のパートはベースをやっていて私自身はそんな目立つタイプではなかったし、 正直に言って人気のあるバンドの中にベースが出来る人がいないから陰キャな自分が入っていた感じだ。だから、バンドで良くあるメンバー紹介の時間が正直怖かった。
 こんな感じでバンド経験をしているのだが実はこのバンドの経験が2つの自分を形成した。1つは自分に自信を持てなくなる。という事である。なぜならライブとかやっても明らかに自分を見に来ている人がいないからだ。そして人気のメンバーを間近で見ることになるのだが、これがけっこう寂しかったりする。そして、ちょっと卑屈っぽい性格が形成された。
 2つ目はどちらかというとポジティブな事だが、人気な人とやっているとそれなりの人の前で演奏することになるのだが、自分の演奏で盛り上がっていることを疑似体験できる。ちゃんと弾いてはいるので疑似体験って言っていいのか分からないが、そんな経験ができた。これはちょっと嬉しい経験となっていて、この経験が今でも音楽を続けている理由となっている。

 このアニメを見てから、今までは自己満足の世界で音楽をやっていたと思っていたが、実は自分の力でみんなを盛り上げてみたいという感情があるのかもしれないと分かった。ただ、私の経験が「ちょっと嬉しい」というぐらいなのでなぁなぁでやっていることにもなっている。この嬉しさが快感だとするのであれば、その嬉しさの度合いによっても本気度が変わってくるのではないかと感じる部分でもあるが、同時に卑屈っぽくなってしまう感情もできてしまったので「ちょっと嬉しい」ぐらいになってしまったのかもしれない。それでも、自分ではあまり意識していなかったが自分にも少しだけ自己実現にむけた承認欲求があることに気付くことがようやく出来た。

 アラサーになってから、子どもの頃に色んな感情になるようなことは必要だったのだと思う時がある。確実に私に足りない感情が「悔しい」と言う感情だ。スポーツ等で誰かと本気で競い合って負けたりすれば「悔しい」という感情あったかもしれないが、そんなことはない。そして飽き性なんで悔しさを感じる前にやめてしまうことが多すぎて、結局は身につかず中途半端になってしまう。それが器用貧乏になってしまった所以でもあるが・・・。

 そういえば、もう1つだけ私が続けていることがある。それが1年に1個なにかしらの検定試験に挑戦すること。これも高校生時代に「全商簿記検定」の1級に挑戦して1回落ちてしまい2回目で合格できたというのがある。この資格は高校でしか使えない、社会人にとっては取得してもあまり評価される資格ではないのだが、1回目に落ちた時は悔しいと思ったし、2回目で合格したときは1回落ちているのもあって個人的に1番取れて嬉しかった資格かもしれない。その経験があるので、趣味のように続いているのではないかと思う。

 そう考えると、何か続いているものがあるのって突き詰めてみれば何か理由があることが分かった。

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