BFC6 決勝作品 感想
プールの記憶 深澤うろこ
中学生たちが屋上の水を抜いたプールに連れてこられる。当然授業だと思っている普段通りの彼らそれぞれの様子、ちょっとした違和感がどんどんエスカレートする状況の中で膨れ上がっていき、取り返しのつかない状況が出現する。全知の語り手が生徒たちの内面や記憶、彼らから見える風景や感触に自在にアクセスし、特定の視点人物へ感情移入させることはしていないのだが、至極普通の中学生集団の平凡なやりとりがこの不思議な記述によって何か温もりを持った、掛け替えのないものと感じられてくる。
読み手としては途中から“こうなる”ことはある程度想像がつくけれど、不穏な空気でありながら直截に暴力的な描写はほぼない。だがプールに押し込められていく子供たちのイメージの生なましさには目を逸らさせない迫力がある。外国ではなくどこかの中学校であることで読者の想像力に過大な負荷をかけず日常と地続きに暴力の現場に立ち合わせ、なおかつ、暴力の記憶が相対化、風化していく過程も見せる。本戦一回戦作品と同様の主題を扱いながら、今度は読み手の襟首をつかんで鳩が燃えている現場を直視させようとする。
静かなるもの 藤崎ほつま
画家の男性が主人公。彼は静物画を専門としているのだが、いつも描いていた白磁の陶器を誤って割ってしまった。同居の妹からは割れた水差しを描けばよいと提案されるがそれでは納得できない。すると軽食を摂るため立ち寄ったオステリアで、割ってしまったのと同じような形の花瓶を発見する。店主に掛け合って譲ってもらい、石灰で色を塗る。ほとんど元あった物と変わらない。幸運な出会いを神に感謝しながら、男性は安らかな気持ちで眠りにつく。
という、心温まる良い話。ではない。もちろん。
男性は食事の内容その他からどうもイタリア人らしい。オステリアで出くわす“党員”の口にしているスローガンはファシスト党のものだから時代は第二次世界大戦前。とうに終わったパリ万博、は1925年開催のものだろう。そして静物画を中心に活躍していた当時のイタリア人画家といえば――三人の妹に世話されていたという、ジョルジョ・モランディのことだろうか。彼はファシスト党と思想的につながりがあったという。
男性は、透明の花瓶を石灰で白く塗る。これは新約聖書のイエスの説教からの引用かもしれない。
“お前たちは石灰で[白く]塗られた墓そっくりである。外側は美しいが、内側は死者の骨とあらゆる不浄に満ちている。
マタイ23:22-34“
ある芸術家の、穏やかな一日。だが、彼の関心から外れた世界では、不吉と暴力の気配が兆している。彼がそうした動きに気付いていない、というのは多分芸術家に無邪気さを求め過ぎというもので、おそらくは全て承知したうえで、“不要物”を慎重に視界から取り除いている。割れた陶器が語り出し彼の凡庸な沈黙の世界の平和な連続性を毀損するならば、それと似たもので埋め合わせればいい。
どちらの作品とも、現状へのコメントを強烈に打ち出している点が共通しているが、『プールの記憶』の方が寓意性を明示しているのに対して、『静かなるもの』は一見するとそれとわからないような“技に溺れる”方向で徹底した。アクチュアルな主題の取り扱いをめぐる決勝戦作としての戦略の違いがブンゲイの強さ、としてどう評価されるか、決勝ジャッジの判断を楽しみに待ちたい。