『Kとサイゼのミラノ風ドリア、』感想

 さらっと読んでしまうと、長い付き合いの友人との別れを描いた物語、としか見えない。イグナイトファングの出番のない少し感傷的な百合風味ブンゲイ的一品だ。
 しかし注意深く読むと、不思議な記述が頻出することに気づく。これは見かけ通りの物語ではないのでは、というのが以下の文章の要旨です。

 
 サイゼリヤのミラノ風ドリアが300円になったのは2020年7月からとのことなので、作中の時代設定はそれ以降。“その時代”と回顧している所から(さすがに一、二年の経過で“時代”なんていわないだろうから)近未来的ないつか、からの回想ではないかと思われる。年老いたハヤカワが、宗旨替えしてこさえた孫子に語って聞かせている――であってもいいわけだ。
 
“彼女は自分で書けない小説のアイディアをボクに押しつけて書かせてる。”
 
 二人の関係は不思議なものである。
 語り手であるハヤカワは読書家ではあるものの小説家志望という訳ではなさそうだ。たまたま文才を見込まれて、週に一回Kに見せるためだけに、彼女のアイディアに従った小説作りを行っている。(後で五円玉の数からわかることだが、十年以上にわたって)
 しかしKは提出された小説を褒めることはない。決まって毎回同じ台詞で批判し、五円玉を一枚渡すだけ。
 普通はうんざりして投げ出しそうだが、このゴールの見えないやり取りにハヤカワが疑問を感じている様子はない。

 Kは夏目漱石と梶井基次郎の熱狂的なファンである。彼らの小説以外を認めない。飼い猫の名は“吾輩”、そして置かれる檸檬爆弾。漱石と梶井それぞれの影響、という訳だが、そもそも“K”という名前からして意味深だ。漱石にも梶井にもKの出てくる小説があり、どちらも死別が描かれる。そしてどちらの語り手もKへの、友情より少し強めな感情を漂わせている。

 語り手はヘミングウェイその他ハードボイルドのファン。だから、ところどころで気の利いた言い回しを使おうとするだけではなく、その語りには嬉しいだの悲しいだの怒っているだのといった直接的な感情表現は使われない。彼女の発言や間、ちょっとしたアクションから感情の動きを推察する形になる。例えばいつもと異なりミラノ風ドリアに追加されるチーズ、みたいな。
 冷静で疑似的客観性のある口調を表面的には崩さないため、彼女の気持ちは中々読み取りにくく、ついでに二人の関係の本当のところも、実はわかりにくい。

“だから物書き適性について語るならボクの方がKよりまだマシかもしれない。けどま、五十歩百歩というところだろう。ボクはシェイクスピアの著作の半分も読んでいない。”

 単に衒った文章というよりも、ハヤカワには物書きでありたいという自意識が希薄なのだと感じられる一節。

 “宗教二世だとか性的少数者とか戦争とか、そういう物事とも無縁だった。”

 この辺りから唐突に語りがセカイの大きな問題と接続される。どこかしら懐かしささえ覚える。そして“ボクら”の世界観が説明される。
 
 “ボクらに共通していたのはこのままゆるりとすべてが滅びるまで生きていくという決意で、子供は絶対に作らないというルールだった”
 “この世の未来が暗いというのなら子供なんて作るべきじゃないし、もしも子供たちが自発的にこの世界に生まれてきたいと願うならば、ボクらはいつしか子作り本能に揺さぶられて気がついたら妊娠しているはずだった”

 という奇妙な確信をハヤカワは抱いている。子供たちが自分の意志で生まれてくる、というのはある種の宗教的信念のようでもある。ハヤカワはこれらの信念がKと自分との共通点だと思っている。
 
 その日、初めてKはハヤカワの小説を褒める。そして自分が妊娠したことを告げる。
 ハヤカワはこれまで溜めていた五円玉の束を取り出してKに渡し、今日以降別々の道を行こうと宣言する。
 ハヤカワ、と呼びかけるKに、

 “「それはもう旧姓だよ、K」とボクは笑った。「いまはサトウをやってんだ」“

 それっぽい彼氏とつきあって結婚の約束をとりつけている、という段階だからまだ姓は変わっていないのではとも思うが、それはともかく、ここまで幾度かハヤカワと呼ばれても特に反応せず、ここであえて訂正を入れたのは   二人の関係が変わったことの表明、である筈だ。
 だが、これ以降もハヤカワにとってKはKのままである。彼女もまた姓の変更がありそうだがイニシャルに変化はない。これは何故か。
 小林が近藤になったから、とかではないだろう。可能性としては、

①ハヤカワの中ではKはずっと昔のKとして存在しているから、という未練型。
②Kは姓ではなく名前だから。

 ①であるならば終段の後悔らしきくだりとは合っているが、結局のところ“それが人生だ”で納得してしまえる割り切りの良さとはそぐわない。
 というわけで本稿では②であったものとして考察していく。
 Kからは苗字で呼ばれ続けていたが、ハヤカワは彼女のことを名前で呼んでいたのだ。
 これが即ち二人の距離感を表していると考えるのは早計だろうが、改めて物語全体を振り返ってみると、二人の関係の不均衡に気づかされる。

 どういったきっかけで始まったのかはわからないが、片方は簡単なアイディア出し(贋作吾輩は猫であるを書け、というような)と出来上がった作品への批評ともいえないような数語のダメ出ししかせず、もう一方は普通に働きながら一週に一作ただ相手に気に入られるために小説を書く(それも繰り返し否定しかされない)、そういう会合を十年以上も続けているのは、友人関係とはいえはた目から見てかなり異様だ。
 ハヤカワが小説家になりたいと考えていて、そのための添削役をKに頼んでいるとかではないのだから。
 
 ハヤカワが後生大事に抱えていた五円玉の束は一束六十枚、それが十束あったという。突然こんなものを取り出されたらインパクトがあり過ぎてKでなくとも引くだろう。
 そして五円玉一枚当たりの重量は3.75g。つまり合計2㎏以上を、会合の時だけとはいえわざわざ持ち歩いていたのであって(「いつかこんなときが来るんじゃないかと思っていたよ」いつかって、いつになるかわからない!)、これが彼女サイドの思いの丈を示しているとしたら、かなり、強度の高い何かだ。
 
 翻って、Kの側の気持ちはどうだったろう。
 毎週一回会うのを十年間続けるのは確かに何かしらの絆めいたものを感じさせる。しかし彼女の負担はハヤカワに比べて遥かに少ない。創作にさして興味がある訳でもない“友人”が、自分の思い付きに従い自分の機嫌を取るため認められるために、毎週せっせとプライベートな時間を削って小説をこしらえてくる、それをどういう目で見ていたか。

 Kはもう飽きていたのではないだろうか。
 いつまでも続くこの代わり映えしないやり取りに。
 十年この方変化のないハヤカワの語る世界に。
 妊娠について告白するKの言葉は率直というより幾らか露悪的である。これはつまりもう手を切りたい友人へのちょっとした罪悪感から、相手の好みそうな表現に寄せたのではないか。不特定多数と不定期に性的関係をもつことが常習化していた、とかでなければ、それまで子供を作らないことに決めていた(はずの)Kが、自分が妊娠した時期をいつだかわからないと表現するのは不自然だろう。そもそも子供を作らない云々、という合意が、二人の間で実際に確認されたのかもよくわからない。全てはハヤカワがそう思っているだけ、なのだ。
 
 サイゼリヤでのやり取りの後、ハヤカワは“たかが子供ができたくらいで仲違いしたのは失敗だったかもなと思った”と独白する。彼女の方では友達同士の意見の相違と理解しているのだが、果たしてそうなのか。Kは寧ろ自分から望んでハヤカワとの間に距離を取ったのではないだろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?