見出し画像

簡単さについて

今朝、友達がFacebookでシェアしていた精神障害についての記事とそのコメントを見て、いろいろ考えさせられるものがありました。自分が理解できない事を「認められない」とか簡単に言っちゃう人は多いんだなあ。

理解の材料

「認められない」とか「理解できない」とか、あるいは「私は認めてあげるよ!」とか。
そういう意見を見るといつも「この人は、自分が世の中の全てを理解できると思っているんだろうか」と首をかしげたくなります。
理解に必要な材料を揃えろというわけではありません。そんなもの揃うわけがないからです。
人、生き方、背景、様々なものが世の中にはあるわけで、それを全てを理解し、受け止めるなんて不可能でしょう。もしそんなことが出来る人がいるなら、いやはや、もう、知識豊富ですごい。すごすぎて軽蔑してしまいますね。

したり顔で「理解できない」なんて言って他者をシャットアウトしてしまうような人はもちろん、これまでもいたのでしょうが、オブラート不要の本音がSNSで気軽に書けるようになった分、可視化されやすくなったのだと思います。
今、ネットでの意見は多くの人の日常に浸透しています。誰かが適当に書き捨てた意見でも、それが10件の書き込みのうち9件だったら、1件の丁寧な意見を見ても「世の中には批判的な言葉ばかりだ!」と感じてしまうでしょう。

画像1

正確さの価値

しかし、オブラートに包まれない意見は、本当に大切なのでしょうか。
ネットで見聞きした意見とリアルな体験の意味は同じなのでしょうか。
適当であれまじめであれ、ネットで見聞き出来るのは、不特定多数に発言する人、できる人、そうしたい人の意見だけです。大半の人は考えている事全てをネットに書いたりはしないでしょう。
コミュニケーションというのは、一方的な意見だけでなく、相手への思いやりや気遣いというものを含めたものであると思います。
それらの配慮を一切欠いたコメントは果たして、向き合うべきコミュニケーションと言えるのでしょうか。

またこれは、専門家が書いた記事であっても同じことが言えます。
知識に基づいた正確な記事より、なんとなく会った友達の「へー、そうなんだ〜」が意味を持つ時だってたくさんありますよね。正しさと大切さは、必ずしもイコールではないのです。

ねむたいパズル72

簡単に見聞き出来るものや、すぐに答えがわかるものにはそれなりの良さがあります。しかし、だからといって簡単でないもの、わかりにくものの価値を下げて良いわけではありません。
答えがないものを軽んじて出てくるのは、簡単な答えですらなく、人に向けることも失礼な、ただの軽薄さなんじゃないでしょうか。

全力でフリーペーパー発行などの活動費にさせていただきます!よろしければ、ぜひサポートをお願いします。