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ラ・ラ・リバース

2023年11月27日月曜日、名古屋DIAMOND HALLにて。
名古屋発オルタナティブロックアイドル『ジエメイ』の東名阪ツアーファイナル。

以前から文字に起こしておきたいなと軽〜く薄〜く思っていたことが頭の中にあって、ツアーファイナルを見ることで追って湧いてきた感情や思考のおかげで、重い腰を上げてフリック入力という名の執筆活動に手をつけております。

文字に起こしておきたいと思っていたこととはずばり、タイトル通りラ・ラ・リバースという曲についての話と、ジエメイというグループについてなのですが、まあそんな大層なものでもないです。ツアーの記憶も少し挟みつつダラダラ書きます。

(STEP1.どういう構成で書くか全く決めていないのでここで30分ほど悩みます)

まず、純粋なラ・ラ・リバースとしての解釈を軽く。

ラ・ラ・リバースという曲に登場するのは、おそらくこの曲の主人公であろう僕。そして、僕に相対している君。
大まかな流れとしては「何らかの挫折を経験した僕が、僕自身のために、君という存在の力を使って、また夢を掴もうと奮闘する物語」ということになると思います。
ここでの僕の夢は、歌を歌うこと。そして歌うその先で、ナニモノかになること。
この曲の僕には表と裏が存在していて、つまりは裏の僕が表の僕であるナニモノかを目指している、リバースしようとしているという解釈になるかなと思います。


ここから、ジエメイがこの曲を歌う意味とか、この曲を届けるのがジエメイだからこう言えるんじゃないか、みたいな話をしようと思います。


まず、ジエメイに出会ってからツアーファイナルまで追ってみて分かったことが1つあります。
ジエメイというグループは、それぞれがジエメイとして生きる以前の過去の自分とは違う道を歩んでいるということです。
言うなれば、1度終わってしまった人生を自身の中に別の人格として持っているということ。

私(ラ・ラ・リバースの主人公と差別化するために今日は筆者としての一人称これでいかせてもらいます慣れなくてキモイすぎる)は、その人格こそ先に説明した「裏の僕」なんじゃないかと思うのです。
他人が語ることでもないので詳しくは明言しませんが、4人それぞれにナニモノかを目指していた過去があると聞いています。

ではそれに対して、4人における「表の僕」は一体何なのかと言われたらそれはやはり、ジエメイというグループ自体を指すのだと思います。
そして、「表の僕に相対する君」というのは、私でありこのnoteを読んでいるそこのあなた、つまりジエメイのライブ中フロアにいるファンの皆である訳です。


黎鮫ワナではない誰か。眠目り汰ではない誰か。神代ロゼではない誰か。八乙女ニアではない誰か。

そのナニモノでも無かった4人をジエメイとして存在させているのは、紛れもない私自身でありあなた自身なのです。

アイドルは客がいないと成り立たない商売とはよく言いますが、そんなちっぽけな話じゃなく、ジエメイの存在価値は我々ハオメイにあるということです。
私は普段から「ジエメイのオタクというより楽しい所に行ってるだけで、それが結果的にジエメイになってる」と言ってパンピー面していますが、敢えて自信を持って言います。そんな私でも、ジエメイの存在価値を生み出しているんです。それは、1度しかジエメイを見たことの無いあなたでも、足繁く現場に通うあなたでも等しくそう言えます。


ラ・ラ・リバースとは、ジエメイではなかった、ナニモノでもなかった4人の歌であり、ナニモノかになろうとするジエメイとしての4人の歌であり、ジエメイをジエメイとして存在させている私達の歌です。


ギリシャ神話にこんな話があります。
ある日月の女神であるセレネは人間であるエンデュミオンと恋に落ちます。しかしエンデュミオンは人間ですから、歳をとるにつれ醜くなっていきます。それを見かねたセレネは、エンデュミオンを永遠の眠りにつかせる代わりに不老の身体に変えてしまいます。そしてセレネは夢の中でエンデュミオンと幸せに暮らしたと。

時が経ちギリシャからローマへ神話が伝わると、人々は月の女神セレネのことをルーナと別の名で呼びました。

ステージに立つ4人の女神は、歌という夢の中で我々と幸せに過ごしていくのでしょうね。ちゃんちゃん。

気が向けばまた書きます。

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