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エピソード5

愛媛県内子町
うちこ山村クラフト研究所 主任指導員 加藤毅

時松先生とわたし「失敗することがあなたの仕事」

今年1月3日に時松先生が逝かれて5カ月が過ぎようとしています。
まだ5カ月… もう5カ月…
敬愛の名のもとに甘えさせていただいていたことを痛感し、産声を上げたばかりのうちこ山村クラフトが、また自分自身がどう進んでいけばよいのかを模索する日々の中、直面する場面場面でより鮮やかに甦ってくる先生の言葉が数多くあります。

時松先生が僕にとってどんな存在であったかを一つの文章にまとめるのはなかなか大変な作業になるなぁ…と思った時に、この味わい深い先生の豊かな言葉たちを頼りに何度かに分けて文章を綴ってみようと思いつきました。

僕がアトリエときデザイン研究所の門をたたいたのは17年前、29歳の時です。
まず、今では尊敬する兄弟子となった愛媛県久万高原の甲斐義裕さんのご実家「甲斐工房」に、当時夢中になっていた蕎麦打ちのこね鉢をもとめてお訪ねした時に、木地師という仕事に一目惚れしてしまいました。
そして「甲斐工房」に再度訪れ木地師になりたいと義裕さんのご両親に相談した際に、アトリエときのことや時松先生のことをお聞きしたのがご縁となったのです。

入門時のエピソードは門下生の皆様それぞれに物語がありインパクトがあると感じていますが、この瞬間は指導者が相手に対して自らが学ぶ覚悟を自覚してもらうとても重要な場面であることを痛感しております。十人十色に後から思えば的確なアプローチを、時には大胆に、また時には限りなく繊細に織りなしておられた時松先生の感覚の鋭さや覚悟の深さは時がたつほど浮き彫りとなって感動が深まります。
僕の場合もいろいろと段階を踏みましたが、学ぶならば日本一(今ではいろいろな意味合いで日本一の方が大勢おられることを理解できました)の指導者の下でというミーハーな熱い想いに突き動かされ、無事に?押しかけ弟子として指導を受けることになりました。

今回の印象深い先生の言葉は、そんな押しかけ状態の僕が初めて自覚できる失敗をして木地を無駄にしてしまった!!と青くなった時のエピソードです。

妻子を連れて湯布院に移り住み、アトリエときに通い始めてまず掃除の仕方と帯鋸の扱い方を教わり、しばらくはひたすら帯鋸で製材作業をさせていただいていましたが、ある時ふとベルトサンダーを使い実際の作品を削る仕事をふっていただきました。
後になって分かるのですが、時松先生は新しい仕事をするときに始めは理解するまで丁寧に教えてくださいますが、あとは時折必要な助言で軌道修正される程度で、さりげなく見てはおられてもほとんどとやかく言われません。そして、ある時突然次のステップの仕事をふってこられます。隠れて練習していてもばれてしまう…仕事(品物)にそのまま出るのでしょうか?それにしても本当によく相手のことを見ておられました。

さて、新しい仕事をいただいた僕は嬉しさと緊張でコチコチになりながらも「畏れ多い先生に試されている…失敗は許されないぞ!」と自分自身を追い込み、全身全霊をこめて慎重に作業を進めていましたが、三本目あたりで見事に削りすぎて…
いじればいじるほどドツボにはまり、どう修正してもこれは無理だという状態の木地が手許に。
木を活かす仕事をしているはずがとんでもないことになった…青くなりました。
そして、破門覚悟で腹を決め(今考えると我ながら笑えますが)時松先生に声をかけ「大切な木地を無駄にしました、許されないことをしました…本当に申し訳ありません」と謝りましたが、その時の先生の言葉が、
「あんたが職人を目指すならこれから先どれ程失敗をしないといけないか。あなたのここでの仕事は失敗をすることだよ」
でした。
笑いながら温かくかけられたその言葉で、僕の本当の意味での木地師修行がはじまったと思います。

今では成功も失敗も同じ感動の種であり、感動なくして学びはないと実感していますが、当時の幼い自分にとって「あなたの仕事は失敗すること」という大胆な言葉は、失敗することは悪いことという揺るぎない価値観にヒビを入れ、失敗した自分をありのまま受け入れるに十分なだけ衝撃的であり、今日に至るまで座右の銘として僕を支えてくれる言葉となりました。
他の人には何気なく聞こえるかもしれないけれど、ピンポイントでその人の心に響く言葉や人生を左右する気づきが生まれる指導…そんな言葉やアプローチは、時松先生をめぐるエピソードとして枚挙にいとまがありません。

近年AIの話題が多く飛び交いますが、AIの最大の強みは失敗を畏れないところにあるといいます。時松先生の指導の特徴は失敗を畏れず自らの手を動かし続けること、自らの感覚でこの世界を体感し、自らの感覚を磨き、自らのモノサシを培い育て学び続けるところにあるのではと考えると、AIとの共通点を感じますが、大きな違いは美しさや品格、恥を知る等の人間らしさが溢れていることではないでしょうか。
そして、この観点こそがこれからおとずれる時代の指針になるのではと思ってみたりもしています。

昨年12月に、ご親族の方々やショップを代行されていた西原夫妻をはじめとするアトリエとき関係者の方々、介護関係者や病院に関係する方々や自宅介護を担ってくださった岡本さんなど、大勢の皆様の連携により、時松先生は2週間ほど自宅のアトリエときデザイン研究所での最後となる時間を過ごされました。
コロナ対策の制約を受けながらも時松先生はリモートでの指導やご縁のある方々との語らいの時間を得て、笑い、泣き、時には怒り、豊かな時間を過ごされたと聞きます。

お陰様で僕もこの期間に師匠と弟子としてのかけがえのない時間をいただくことができました。
12月13日は思いがけず僕が時松先生とお話しできた最後の日となってしまいましたが、湯布院から内子町に帰った僕を追いかけるように、介護をされていた岡本さんからの伝言がありました。
「時松先生が‘公知のデザイン’について学んでおきなさいと加藤さんに伝えるようにおっしゃられています」
失敗を畏れず、自分をありのまま受け入れ学び続けること、仕事の意味や楽しさを教えてくださった時松先生の最後の言葉は、やはり学びなさいでした。

自分にとって偉大な存在であった師匠を失った喪失感は大きく、まだまだどうすれば良いかわからないことも多々ありますが、時松先生がその素晴らしい人生をとおして、多くの場所で、大勢の人たちの中に蒔いてくださった種はかけがえのないもので感謝にたえません。
そしてこれから自分の中の種も大切に育て、いつか先生のように未来に向けて豊かな種を蒔けるくらいに成長させたいと思っています。

時松先生本当に最後まで…ありがとうございました。

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