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エピソード3

大分県九重町
家具と木の器
TODAKA WOOD STUDIO
戸髙朋子

 
木工が縁で今の夫(家具職人)とも知り合い、子供二人にも恵まれ、私の今の生活はすべて「アトリエときデザイン研究所」からスタートしました。
 
きっかけは20代半ば、海外でのウッドターニングの体験でした。木くずが生き物のように飛び出し、塊からでてくる木のボウル。木くずもボウルも美しかった。ロクロという道具の名前も知らず、ただもう一度やってみたいという単純なものでした。
 
クヌギの木立をくぐってお店に入り、ずらりと並ぶ木の器を見たとき探していたものが見つかった!と思ったと同時に先生に初めて会った瞬間、心臓がドキドキしたのを今でも思い出します。
はじめは木工教室だと思っていたので実家の福岡からだと月に一回くらい通えないかと相談に行きました。
先生は「ここは趣味で来る人はいない、仕事にするつもりで来ませんか?」
「とんでもない、仕事にするなんて、、そんな才能、私にはありません。」
「これはね、職業訓練だから、10人中6~7人は仕事にできるんですよ。」
と。今思うとその言葉は本当であり嘘であり。
でももし、この時先生が「この世界は厳しいです。10人中一人しか続けられません。」だったら、私は迷うことなく進んでなかったと思います。
手先が不器用な私でも60%ならなんとかなるのかも。
20代後半の定職のない私はフラフラとしていて、実家も居心地が悪くなり、今後の自分に不安を感じる毎日。
自分の核となる何かを見つけたい。そんな根っこのない私は風に流されるように、「アトリエときデザイン研究所」の門をたたき、2年間の研修生をスタートさせました。
 
先生から「今年の紅葉は最高にきれいだからみんなで見にいきなさい。綺麗なものにたくさん触れることが仕事につながるからね」と言われて他のスタッフと一緒に隣町九重町(現在はわが町となりました)の紅葉の景勝地へドライブしたのが初日でした。
 
2年間の研修期間中、メインの仕事はスタッフを含めた4~7人分の3度の食事の用意。
生涯独身を通した先生には常に旬の野菜や果物の差し入れがご近所から、全国のお弟子さんから届いていました。
それをどう無駄なく料理をするかを考えるというのが日々の仕事。
与えられたモノと時間をどうきりもりしていくか。
これが今の生活と仕事には大いに役に立っています。
 
しかし工房での仕事はかなり不満が残るほどの短い時間でした。
1時間仕事をしたらお茶の準備、1時間したら買い出し、料理、とコマ切れで仕事に集中できない。
歴代の弟子たちによってそれぞれ違うようですが、私の場合はもっと工房で仕事をしたかった、2年間で何も手にいれられなかったのではという不完全燃焼のまま研修が終了しました。

「学ぶ」に必要なことは技術より好奇心。
夫がよくいう言葉ですが、2年の研修の間、日々、木の器を使いながらの先生と話をする食事の時間、先生がいない時も弟子同士何もわからないくせにアレコレ議論し語りあう。
工房には一流のデザイナーや木工家の資料がここかしこにある。
足りないと思うからこそ、好奇心を刺激するには十分でした。
 
 
一昨年、心臓の手術をして入院していた先生を夫とお見舞いに行き、痩せ細った先生を見て言葉をなくしました。
退院したら、あれを作ろうこれを作ろうという話を息も絶え絶えに、そして夫に自分がもうできなくなった家具を作ってほしい、デザインや作り方の指導は自分がするから、と。
最後に「仕事は面白りぃきね」とはにかむように笑った顔、最も先生らしいと今でも時々思い出します。
帰りの車の中、夫は「参ったな。先生、あんなになっても仕事が面白いって、、、敵わないなぁ。」と。
仕事を始めた当初、私もろくろがうまくできるようになったらあれを作ろうこれを作ろうと熱にうかされていました。木工歴20数年の今、私にその熱量があるだろうか。自問しています。
 
先日、先生のお姉さんのところに訪ねる機会がありました。
倉庫には若い頃の先生の写真、器のデッサン、試作の木工品など無造作においてありました。
「辰夫が『いつか使うかもしれんけんとっっちょって』って言うけぇ40年くらいそのままでね。私たちはわからんけど大事なもんかち思うて。」それを一つ一つ触りながら先生の子供の頃や若いころのエピソードをいくつか聞きました。
「耳が悪かったのをね、母さんがずっと気にしとってね。そしたら辰夫がね『耳が悪いから仕事に集中できたんよ。悪いことばっかりじゃあなかったよ』っていうのを聞いて母さんは心が楽になった、、っていいよった。」(時松先生は耳が不自由でしたが、補聴器をつけてからはほとんど不自由なく会話できました。)
先生の尋常でない集中力、木工に対する好奇心、はそんな子供のころの環境が影響しているのではと私も思っていました。
 
先生はご自身の肩書きを「木地師」と言っていましたが、私から見ると明らかに木工作家であり、デザイナーであり、プロデューサーであり、そして詩人であったと思います。詩人というのは木工という目線から美しい山や森の木々、その中での山村の暮らしをみんなにイメージできる言葉を選び、それを慈しむ気持ちを人に伝える力があったからです。
 
先生は日本全国を新たな産地づくりのため木工指導に晩年まで飛び回ってました。
外での先生は限られた時間で結果を残すため計画的に適格な指導力を発揮したように思います。
しかし、湯布院での先生は自宅に帰ったように、指導者というより家族のような関係性の時もあり、弟子は思い付きで振り回されることも多く、私は親に反抗するように反発した時間が長くありました。
晩年体調が悪くなってから、改めて関わりができ、先生の仕事を俯瞰してみることが出来てからは色々なエピソードに笑えるようになり、人間力だなぁって思います。
 
年中無休、趣味なし。
まさに仕事が趣味。寝る時間は塗装の合間、移動の車の中。頭の中は360日×24h×0.9くらい仕事のこと。
時間があれば新しいものをノートに落書きのように書いている。
先生は最後の最後まで木工が楽しいという情熱を失わなかった。
羨ましい人生だなぁと思います。
 
亡くなった今、決して追いつけない。偉大な師匠をもったことを誇りに思います。
 

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