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書き直す


今日もおつかれさまです。


ふう。やれやれ。いろんなことが捗らない日でした。


午後の会議終わり。

「ちょっといい?」

かなり偉い上の方に呼び止められました。

なんだろうとこわごわ目前まで行くと、私が作成した講座のチラシを館内で見かけたらしく、サブタイトルやリード文について「ここはこうした方がいいわよ」と指摘してくれたのでした。


今回に限らず、書き直すと良くなるよ、とよく言われます。

曲がりなりにも編集の仕事を30代半ばまでしていたのに、

ツッコミどころ満載の隙だらけの文章を書くからなんだろうと思います。


そういえば、今日と似たようなことがあったなと、帰り道、昔のことを思い返していました。

あれは確か、中学三年。

国語の先生に廊下で呼び止められて、書き直しするといいよと言われたことがありました。

締め切りに間に合わせようと家にあった本を適当に飛ばし読みして、急いで書いて出した読書感想文。

書いてあることはとてもいいから、もっと何回も書き直して、文書を磨くようにと言うのです。

ほとんど教科書は使わないで、ミイラの作り方なんかを延々お話しする定年近い白髪の先生でした。みんなに慕われていた温和な老教師です。

「ミイラを作るのは簡単だ。自分で穴を掘って、そこに入って、縄に鈴をつけたものを首に引っ掛けてな。穴を塞いで、絶食して、息絶えたら、首が落ちるだろ。チリンて鳴る。はい、おしまい」なんていう話ばかりしていたっけ。

実家は山形県羽黒山の麓にあるお寺。即身仏が祀ってあり、自分も僧侶の資格を持っていて、休みの日は檀家廻りをしたり、お葬式でお経を上げるのに駆り出されるとのことでした。

あの時、私は先生の助言を聞き入れたのだったか。

適当に話半分に聞いて、書き直しもしないままやり過ごしたのか。

記憶にはありません。

でも確信できます。おそらく、私は、書き直さなかった。

私にとって、言葉は瞬間瞬間に生まれるもの。生もので、フィーリングだった。

書き直して定着させることが苦手だった。

それは今もあまり変わっていなくて、書き直すと全然違うものになってしまうから、好きではないのです。初発の生まれたばかりの生き生きした勢いのようなものが消えてしまう気がするから。間違っていてもそちらが自分には大切に思えてしまう。

でも、それでは誰にも伝わらないことがある。チラシや公文書、仕事の文書だとなおさらです。芸術作品ではないのですから。


この歳になって、書き直すことに直面することが増えているのは何故なのか。

おそらく、感覚では通用しないこの世の中に適応できなくて、どこか文章に対して投げやりになっているのかもしれない。

でも、「丁寧に書き直して周囲が納得するものを出す」ことが今求められているのだとしたら、それはずっと、私の中で未消化のままだった「課題」なのかもしれない。

国語の先生、上の偉い人の言葉を重く受け止めて、じっくり執拗にとことん突き詰めて書き直すことが、もしかしたら何か未知の領域に繋がって行くのかもしれない。

書き直そう。

全くもって私らしくはない。今更二郎な感も否めない。

けれど書き直したその先に、別の世界があるかもしれないとも思う、今日この瞬間です。









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