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常盤色

常盤色 1

 君が鞄の中を覗いている。鞄は黒い合皮で出来ていて、縦に長くあまりマチがない。背負えるタイプのものだ。待ち合わせした場所でその鞄を褒めると、ランドセルみたいでしょう?と嬉しそうに笑った君を思い出す。
「栞がなくなっちゃった」
 君は顔を上げ椅子に深く座り直すと、ため息まじりの声で言った。
「きっと鞄の中にあるから大丈夫だよ」
 僕はそう返すと、冷たくなったコーヒーを飲む。厚手のカップに注がれたコーヒーが時間をかけてこの温度になったのだと思うと、冷たさも悪くない。
 

 絞ったボリュームで流れるクラシック音楽、店内をぼうっと照らすオレンジ色の灯り、濃い茶色をした木の床。席を選んだ時には、窓の外に通り過ぎてゆく人や風で揺れる木の枝がくっきりと爽やかに見えていた。もう少し暗くなれば、だんだんと窓に映る顔がくっきり見えるようにだろう。
 落ち着いた空気が流れているからか、僕たちの他に客がひとりしかいないからか、この喫茶店では普段生きている世界からは切り離されたような感覚がする。何回か小さく震えたスマートフォンをポケットの中から出さないようにしている。この喫茶店には多分時計がない。


「鞄の中にあることはわかってるんだけど、うーん、栞は印だから」
 君は言葉を途切れさせると、右手で髪の毛を耳にかけ、再び鞄の中を覗き込んだ。左手には深い緑色をしたブックカバーがかけられた文庫本。
 

 この喫茶店にはいろんな人と来たことがある。初めて親友だと思えた友人とも、共通の先輩を通じて出会った人とも、今は別れてしまった恋人とも。それなのに、今日はなぜか初めての感じがする。もしかしたら、君が特別存在感のある人だからかもしれない。今までどの人も「喫茶店にいる人」といった感じだったのに、君は喫茶店を背景にしている感じがする。顎のあたりで切りそろえられた艶々とした黒い髪、重力を感じさせないくらい真っ直ぐに伸びた睫毛、黒地に白い小さな花(多分かすみ草という名前の花だと思う)が敷き詰められたワンピース。見た目の特徴はいくらでも言うことができるのに、存在感の理由は言うことができない。ただ、他の人が君を真似して同じ姿になったとしても、喫茶店を背景にはできないだろう。


「こういう時に、大丈夫だよって言われるのも、一緒に探そうかって言われるのも、何だか違うんだよね。なんだろうな。自分でもよくわかんない」
 鞄の中を覗いたまま君は言った。文字にしたら僕に対しての文句に読める言葉なのかもしれないが、声は至って穏やかだ。黙ってその先の言葉を待っていると、君はちらっと僕の顔を見ていたずらっぽく笑い、また鞄の中に視線を戻す。
「まあいっか。読み直せばどこまで読んだかわかるよね」
 明るく作られた声でそう言うと、君は鞄を荷物入れに戻した。「まあいっか」が栞に対してなのか、僕に対してなのか、君自身に対してなのか、僕にはわからなかった。
 

 君は今度は椅子に浅く座り直し、ずっと大事そうに持っていた本を差し出してくれた。
「これが今読んでる本」
「ありがとう」
 

 僕は来月から新しい場所で生活を始める。生まれてからずっと住んでいた家を出て、初めて一人暮らしをする。今まで趣味という趣味を見つけられないまま生きてきた。何かに夢中になる自分が恥ずかしいと思っていたし、自分が何に興味を持っているのか知ろうとせずに生きてきてしまった。だから、新しい場所で生活を始めるタイミングで読書を趣味にしようと思っている。しようと思ってする趣味は理解されないかもしれないが、このくらいしないと僕はひとりで暮らす部屋の中で、食べるか寝るかくらいしかしないと思うのだ。新しい部屋には小さくも大きくもない本棚を置き、出会った人から勧められた本を集めていくつもりだ。
 

 君に手渡された本の表紙をめくると『クチナシの隣で』と優しいフォントで書かれている。淡く黄みがかかった白いページも優しく感じる。フォントやページに対して感想を持ってしまうくらい、今まで本とは無縁だったのだ。

「でも亘くん、どうして急におすすめの本教えてなんて言ったの?」
 君は机の上のティーカップに手を伸ばしながら聞く。僕のことを名前に君付けで呼ぶ人は珍しくて、少しどきっとする。
「新居に本棚を買おうと思ってさ。収める本もこれから買うんだ。だから、いろんな人におすすめの本を聞いてるんだよ」
「そうだ、お引っ越しするって言ってたね。それを機に本を集めてみるのか、素敵」
 実は、読書を趣味にしようとした理由はもうひとつある。以前君が「勧めた本を読んでくれる人は素敵だと思う」と言っていたことが忘れられないからだ。

「まだ読み終わってないけど、その本私は好き。」
 君は静かにティーカップを元の位置に戻すと、両の手を膝の上に揃えて少し前屈みになって言った。
「どんな内容?」
「読んだところまでの感じなら話せるけど、話しちゃっていいの?」
「いいよ」
 作品とこれから作品に触れるかもしれない僕を大事にしていることが君の言葉から感じられる。やっぱり今日会っておすすめの本を聞いて良かった。

「題名にあるクチナシって何か知ってる?」
「知らないや、植物か何かの名前?」
「そう、植物。クチナシは白い花が咲くの。たしか夏に咲く。ページから少しだけ甘い匂いしない?物語にたっぷり入り込めるように、クチナシの香水を買って、ちょこっとだけかけてみたんだけど」
 表紙の先をパラパラとめくると、微かに甘く優しい香りがする。
 このやりとりを作者が見ていたらどう思うのだろう。五感を使って最大限に作品を楽しもうとする読者がいることを知ったら、僕だったら幸せに思うだろう。
 僕が匂いを感じ取ったのを確認すると君は続ける。
「それでね、葉っぱは一年中緑色。なんだっけ、そういうの」
「常緑樹のこと?」
「それ、じょうりょくじゅ。クチナシの花の花言葉は『私はとっても幸せ』みたいな意味」
「うん」
「それで、話の内容は、幸せについてと、変わらないことについて、主人公が向き合っていく感じかな」 
 

 ——幸せについてと、変わらないことについて
 頭の中で言葉だけが巡っている。今さっき作者に自分を当てはめて幸せを思ったのに、今の僕の幸せはすぐには頭の中に浮かばない。変わらないこととは僕の毎日のようなことを指すのだろうか。いや、僕の毎日はどちらかと言うと変えられないことのような気がする。

「亘くんは変わらないことって何だと思う?」
 大きな目で見つめられながら、頭の中で答えが見つからなかったことについて質問されて、僕は黙ってしまった。
「こんなことあんまり考えないよね」
 そう言って君は店内を眺めると小さく伸びをした。
「常緑樹はずっと緑色ではあるけど、変わらないわけではないと思うの。成長はするし、花と一緒に地面に落ちることも、あると思う。」
 君は悠揚とした口調で続ける。
「私はね、この世界で変わらないことは、変化という事象だけなのかなって、この本を読みながら思った。伝わるかわからないけど、読んでみて。私の後でもよかったらその本あげる」
 君は自分で自分の考えを確認するように話していたのだろう。「読んでみて」「その本あげる」は僕との会話に結びつけるために付け加えた言葉のように感じられた。
 喫茶店を背景に言葉を選ぶ君は絵になると思う。少し遠くに感じてしまう。

「ありがとう。読んでみたくなった。読み終わったら連絡してほしい」
「わかった。感想教えてね」
 君は僕に笑顔を向けた後、口角を上げたままティーカップをしばらく見つめ、カップのふちを指でなぞり円を描いた。それから中身を飲み干した。
 僕も君と同じようにカップの中を空にした。

 ——クチナシの隣で
 ——変わらないことは、変化という事象だけ
 
 窓には君の綺麗な横顔が淡く映っている。