politicsとthe political

書評:『心理臨床と政治 こころの科学増刊』(信田さよ子・東畑開人 編著)|評者:松本卓也

日本の心理臨床は,“心理検査や心理治療といった営みは,病める個人ではなく,社会や権力の側の要請を満たすものでしかない”という痛烈な政治的批判を締め出すことによって現在の姿を手に入れたのであり,それゆえ心理臨床が「政治とは何か」を問うということは,自らが排除してきたものにふたたび向き合うことであるからだ。

けれども,このように展開されつつある心理臨床の政治的転回が今後どのようになるのかは定かではない。政治学者シャンタル・ムフは,「政治(politics)」と「政治的なもの(the political)」を峻別した。「政治的なもの」とは,カール・シュミットが見出したような「友」と「敵」を分割する敵対性のことであり,私たちの社会において重視されている「合意」なるものの限界を暴露する。他方,「政治」は,そのような敵対性を無化し,厄介払いしようとすることに(たとえば利害調整に)全力を尽くす。その意味で言えば,信田が「家族のポリティクス」と呼んでいたものは,自らの被害を「被害」と認め,闘争を開始することを可能にする「政治的なもの」をひらく場のことであろう。

「心理」派と「社会」派の対立における心理師の「社会派」たる部分は,「連携」によって置き換えられてしまいかねないのだ。「ケア」論の広がりは,その拠って立つフェミニズムが維持してきた敵対性を骨抜きにするかもしれない(カフェイン抜きのコーヒーならぬ,フェミニズム/敵対性抜きのケア論!)。

政治と政治的なもの、知らなかった。とても大切。
敵対性を骨抜きにする…それだ。
懐柔してくる人に気をつけよう。