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私の世界に生きる私と誰か

少し道に迷っている感覚。
結局自分のしたいことってなんだろう。人生が終わる時に成し遂げていたいことってなんだろう。

興味のあることに手を出すことに少し慎重になった。

これ以上増やすと選べない、とか、自分のキャパ超える、とか、そういう理由をあげてみるけれど、どれもしっくりこない。

きっと怖い。


弱者を守るための強者

漫画とかを読んでいると大体闇堕ちする人がいて、

弱者を守るために強者でいた人も、弱者の価値に悩んだ。


私の中で、私に関わりのある人以外の人の価値がわからなくなった。

私の世界の椅子に座って私との出会いを待っている人、私と既に出会って関係性を持った人、持ったけれど今はない人、そもそも私の世界の椅子にいない人。

関わりのない人、というのは、ここでは、私の世界の椅子にいない人。

今後関わりがないからどうでもいい悩みかもしれない。
それでも、私はなぜかその人たちの価値づけを選んだ。だから、悩んだ。

椅子に座っていなくても、なんらかの形で関わるかもしれない。
私がこの先もクリエイター活動をして、SNSに発信していく以上、一定数いる。これは断言できる。

例えば、Twitterでいいねされたって、それはたかがいいね、で関係性をもつことではない。
だから、私の世界の椅子に座ってない人になる。

私の世界の椅子に座ってる人ってじゃあ誰だ。

友達か。はたまたまだ出会ってない人。これからも出会わないけれどどこかで繋がっている人。私に影響を与える人。

椅子に座っている人は、私にとって、偶然であっても必然であっても、何かしら私に意味のある人。

その人たちの価値。私にとって意味があること。

私の世界の椅子に座る人に見返りや何かを求める訳ではない。


座らない人に見返りを求める訳ではない。

その人たちの価値とは。


私は強者じゃない。どちらかといえば弱者。

それでも、漫画のキャラクターが弱者の価値に悩んだように、この世界を強者と弱者でみたときに、強者の誰かが私への価値で迷わないように。

私は守ってもらわなくても生きられる。
私は死んでも生きても、私の世界の椅子に座って生きている。

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