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モチベーションなんて存在しない説。やる気が出ないが消え去った日。

迷走

生まれて初めの体験をした。迷宮入りの難事件が、私の心と脳味噌を狭く湿気に満ちた地下室で蜘蛛の巣の手錠をかけられて過ごしてる気分でいた。
人の心は不可思議なものだよ。答えがあって答えがないもの、答えがなくて答えがないもの、しかし、答えはすでに自分の中にあった。

自分の作り出した妄想の悪魔が、今夜自分の命を奪いに来るかもしれないと、今か今かと胸が震える思い、あゝ、人生終わりだ。と
つい先月まで、月日にすれば20年ほど、内向的、神経症的傾向、パーソナリティ障害とやらを患った無能人間だった。(無能は言い過ぎかもしれないが無知と言い換えようか)

楽に生きる智恵を養う


『いつまでも変われないのは、あなたが自分の「無知」を認めないからだ。』出版社 ‏ : ‎ 学研プラス (2019/9/26)、発売日 ‏ : ‎ 2019/9/26
千田 琢哉 (著)さんの本のタイトルでハッとさせられた。実際に読んだわけではないが。

コンビニへお菓子を買いに行くとしよう。
私は近所にあるコンビニの道順もわかるし、お菓子が欲しいという目的も知っている。
目的地にたどり着くには、
なぜそこに行きたいか?
それはどこにあるのか?
誰が行くのか?
いつ行くのか?
どのように行くのか?

コンビニへの道はわかるけど、人生の目的地がわからない。目的地はわかるが行き方がわからない。行く方法がわからない。そもそも、気力がない。やる気がない。モチベーションがわかない。
心が不安定な時はマインドフルネス瞑想がよいと言いますが、私の脳味噌はマインドフルネス迷走している。
道に迷い、迷宮入りの難事件にでくわし名探偵を見つけ出せずにいる。

疲弊した心と身体、解決策を求めてネットの渦にハマり、他人の芝の色を見ては、我が家の芝はなく、芝どころか断崖絶壁の岩山と絶景の渓谷ではないか。

もう何もやる気が出ない。
やらなきゃいけないこともやる気が出ない。
目標立てたのに取り掛かれない。
もうこんな自分じゃ何も達成できない。
このまま無能でいいか。
無能なのに生きている意味があるのだろうか。

この行き場もやり場もない不安と絶望の中、死に場所を探しているのか、まだ死にたくはないと藻掻き続けているのか、いや、死にたくないのだ。
もっといい人生を歩みたい。このままでは終われない。そんなことを心の奥深い真っ暗な沼のそこから助けを呼ぶ、小さくて弱弱しい自分が今にも息絶えそうな声で叫んでいる。叫んでいるのか、耳打ちをしているのか小さすぎて聞こえないほどの蟻の鳴き声だ。

つい自分を欺き、手軽なものに手を伸ばす。楽に身を任せ、やるべきことに手を付けず、先延ばし、後回し、眼をそむける。

自分には、やりたいことがあるのではないか。
こんなみじめな自分を終わらせたいと思っているのではないか。
もっと善く在りたい。善く生きたいのではないか。

まだ生きたい。

その思いか私はリンゴを一口かじった印のついた電話を手にしている。その電話はの中に、禅僧や黄色いパーカーを羽織ったおっさんがビールを飲みながら何やらやる気を出す方法について軽い口調で、あたかも人生の悟りを開いた仏のように、微笑を浮かべてノート型の機会に向かって簡単に語っていた。禅僧も黄色いパーカーを羽織ったおっさんも私の悩みを刹那に、いとも簡単に解決してくれた。

その悩みは、モチベーションという名の「やる気」だった。

楽に生きる智恵。


モチベーションの意味、解釈が間違えている

モチベーション(motivation)とは、「やる気」「意欲」「動機」などの意味で用いられる表現。 主に「行動を起こす契機となる刺激や意欲」といったニュアンスで用いられる。 よく「モチベ」と略される。 「特にやる気もないし必要に駆られているわけでもない」というような状況を指して「モチベーションがない」と表現したりする。

やる気だけに目を向けてしまうと勘違いしてしまう。
「やる気」とは、物事を行おうとする気持ち、欲求などを意味する表現。
「意欲」とは 進んで何かをしようと思うこと。また、その心の働き。
「動機」とは、人が意志を決めたり、行動を起こしたりする直接の原因。


人はやる気というものが世の中にあると思いがち、人間は今やっていることをやり続けたがるモチベーションで動かされている。
例えば、寝転がりながらゲームをしている時に、勉強をしたくない。それが当たり前です。やる気がある、なしではなく、ゲームをしたい。今やっていることと同じことがしたいっていう状況がある。
なので、人間は今やっていることをやり続けたいという事が発生してしまうだけである。

動機づけで今すぐに勉強しないと殺されるという恐怖と、今から勉強すれば1億円もらえる報酬があれば、今やっているゲーム、行動を辞めて勉強、別の行動ができる。
これはやる気とかではなく、期待や恐怖の話になってきます。

要はメリットがあるのか、デメリットがあるのかであってやる気ではない。人間の行動選択の中で、「やる気がそがれる」という言い方も、物事を別の解釈で説明、表現してしまう。
やる気というものが存在しないので、存在しないもので物事を解釈してしまうのがそもそもの間違いの元であるという事です。
ですから、今私は『○○をやりたくない』と思っています。といったん受け入れたほうが自分自身の行動や思考をコントロールしやすくなります。


モチベーションをうまくコントロールする方法


メリットで考える○○したことによって幸福になる自分を想像する。プラスのモチベーション戦う
デメリットで考える○○しなかったことによって失敗、不幸になるのは嫌だ。マイナスのモチベーション逃げる

刺激を求めてはいけない。
モチベーションは刺激と捉える
人生の波は穏やかな方が楽に生きれる。
湖の中に小石を落とすと波が立つが、人生においても同じことが言える。
水面に刺激という小石を投げ入れると、波という刺激が起こる。それは幸福な刺激もあれば、不幸な刺激もある。
退屈だ、暇だ、良いことない、つまらない。もっと刺激が欲しいと人はモチベーションという名の刺激を求めて生きている。
興味や関心といった刺激を求めすぎると足元をすくわれる。善い刺激も悪い刺激も毎日は起こることは異常事態であって、興味や関心が高いのが普通ではなく、フラットで平穏な日々が当たり前なのです。



オリジナリティを持つ


モチベーションは周りから与えられるものではない
外からの刺激ではなく内なる気づき、自分の文化、哲学、スキルを磨き続けることです。
やる気が出ない、退屈、仕事に身が入らない時こそ、自分にしかないものを磨く時期なのです。
誰に言われるでもなく、自分自身で道を切り開く開拓作業を行うのです。
そんな時間は贅沢でしかない、与えられた仕事、与えられたものだけでは満足しないのは、人間として当然のことです。
毎日の生きがい、やりがいは自分で見出すもの、それこそが幸福であるとわたしは思います。自分を高めることで喜びに変わる。その先に必ず今まで見えてなかったものが見え始めてくる。職人の技です。
つまらないからと言って、すぐに刺激を求めてはいけない。刺激を求め続けると永遠に求め続けてしまい、さまよい続けることになる。

嫌なら辞めてしまえばよい。まだ頑張れるなら自分を磨き続けよう。
つまらない自分から卒業です。

自分で蒔いた種


因果とは、以前自分で巻いた種が原因で、今の自分、今の結果として出ている。今が不満なら以前巻いた種(原因)を発見し、なにが悪かったかを反省しなければならない。善く陥りやすいが、私はこんなにも頑張っているのに成果が出ない、報われないと嘆いてしまう。ここで間違っても、他人のせい、自分の能力、頭が悪い、無能だと自分を責め欲しい。
必ず結果には原因がある。良くも悪くも、結果だけに囚われずに原因を徹底的に見直すことが重要なのです。

頑張ることは美徳ではあるが、私は頑張るという言葉を使わないようにしている。頑張るのではなく、努力精進を怠らないと言い換えています。
人生は苦の連続、快楽だけにすがると破滅します。最近いいことない、楽しくない、つまらないのではなく、苦に耐えたのちに幸福が訪れる。幸福は長続きしない。日々、努力精進し常に心を鍛える修行だと思えば、少しは楽に生きれるのではないでしょうか。

苦に耐える訓練として、手始めに便利すぎる世の中から一歩抜け出して不便さを味わってみるのも良いでしょう。時間をかけて自分と向き合う。退屈な毎日で無気力に陥ったら自分の感性が失われてします。
本当の自由、豊かさは自分の感性、内なる自分にあります。
ネットや他人から与えられるものではありません。心と身体を精一杯使いましょう、そして完成を磨きましょう。


追伸

禅僧とビールを飲みながら微笑を浮かべるおっさんに私は応援され回復した私もあなたを応援しています。

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