高橋世弥

高橋世弥

最近の記事

揺蕩うもの

最近のテーマとして「俺は何を感じて生きているのか」っていうのがある。 何も思わず、何も感じず生きているのだとしたら僕は僕であるという事実を確立できずにたぶん死んでいってしまうとすら思っている。 今日は姉と一緒に、かつて通っていた小学校の近くを犬を散歩させてきた。昔は仲悪くて、一緒に学校行こうとしたら着いて来ないで!って言われたっけ、視聴覚室って本来の目的分からないよね、なんだかんだ川っていいよね。 そんな会話の中に懐かしさと、発見が散りばめられてあって、すごく良かった。

    • 認知

      なんだか、自分の認知の仕方はおかしいんじゃないかなと思うことが多い。 本を読んだ感想は「おもしろかった」だし、ウイスキーを飲んだ感想は「美味しかった」だし、音楽を聞いた感想は「良かった」。それ以上でもそれ以下でもない。 対してみんなはちゃんと解釈しようとしてるように思う。 この歌詞の意味はなんだろう、とか、この本のこの文章良かったよね、と。まあ僕の友人は極めて「イケてる」やつが多いから、それだけの話なのかもしれないけれども。 それでも僕から出てくる感想なんて、せいぜい「

      • きっと原敬も笑ってる

        最近SNSとかを見ていると、民主主義っていうものは今の人間には早すぎるんじゃないかと思いだした。 SNSで全員がなんらかの意見を発信し得る社会、言い換えると全員がなんらかの投票権を持ち得る社会が実装されて起きたことはくだらない炎上騒ぎだったりするんだから。 多くの人が誰か、かつてミスを犯したものを非難する。 でもその構造を、強者が弱者を攻撃するものと見るとあまり非難しているその人と変わらないのではないかと思う。 唯一違うのは、対象が世間的に弱者であると認定された者(いじめて

        • 僕は「今」に生きたい。

          結論から言いますと、スマホとかを置いて出かけて、そして自分の時間を生きる時間を取ろうと思うのですけれども、1人でやるのは少し寂しいから誰か一緒に行きませんか?っていうお誘いのnoteです。 かっこつけしぃなのはご愛嬌ってことで許してくださると嬉しいです。笑 ---------------------------------------------------------------------------- 最近僕は「一体僕らはどこに生きているのだろう」と感じて、考え込ん

        揺蕩うもの

          三角鉛筆

          ただの述懐だと思う。いや、述懐でもないのかもしれない。ただ、今ボールペンを持って、書いて、そして感じたものを残そうというだけのもので、それでいいと思うから、綴ろう。 幼稚園に入るぐらいの頃。よく、鉛筆で強く書き過ぎて怒られていた。ものすごく太い「三角鉛筆」みたいなやつですらへし折って、消しゴムでは消せないほど強く書いていた。消しゴムかけるたびに「めいろ」のプリントがぐちゃぐちゃになっていたっけ。 小学生の低学年の頃。まだ僕は利口になったと思う。2Bの、いわゆる普通の鉛筆を

          三角鉛筆

          それでも、歩きたい。

          「生きる」って、すごく疲れる。何せ自分で考えないといけないし自分で動かなければいけないんだから。自分でいくら考えても正解なんてなんなんだか分からないし、自分で動いたことが人の反感を買うことだってあるだろう。 その点、引き摺られることは簡単だ。時間ってやつが過ぎていく、過ぎていく途中で僕っていうものをずりずりと未来に向かって引き摺っていく。それはただ、過ごしていればできることだ。とても楽だろう。 それでも、歩きたい。 自分は、自分の思うかっこいいでありたい。つまらないであ

          それでも、歩きたい。

          日記みたいなもの。

          今日は身のあることを書けない気がする。身のあるってなんだ。身のあるを書こうとするな、笑 普通に生きてて身のある、を実践できる人になりたい。自然で自然に。明日もここにいよう。少しだけ歩くかもしれない。歩かねば、なんて言っても意味がない。歩こうって心持で。 なんか焦りが消えてる気がする。シェアハウスのみんなで掃除しながら話したからかもしれない。わからない。けど、なんだかいい気分です。昨日からいい感じです。 明日も歩きます。仕事、やってください。明日の自分。 おやすみなさい。

          日記みたいなもの。

          自分とかいうやつ。

          昨日、多分自分のことは自分が一番わかっていると思っていた。 今日、多分自分のことなんて自分が一番わかっていないんだなと思った。 自分とかいうやつ、とても難しい。なんせ簡単に知った気になってしまうもの。客観的なんてものはないんだからさ、今の自分には今の自分しかないと思う。それは仕方がないと思う。でも時間が経って、やっぱり違かったかもしれないなって思う。そんなことを繰り返しています。 なのになんでか、いつまでも自分のことは自分が一番よくわかっていると錯覚してしまう。でも実際

          自分とかいうやつ。

          寛容、不寛容。

          寛容というのはなんなんだろうと、近頃よく考えます。寛容とはなんなんでしょうか。寛容と無関心はどう違うのでしょうか。少し、難しいです。 寛容と辞書を引くと「心が広くて、よく人の言動を受け入れること。他の罪や欠点などをきびしく責めないこと。また、そのさま。」と出てきます。いや、その状況はわかるんだ。でもどのような心持でそれをやるのか、そこが重要な気がするんです。いや辞書を否定する僕はたった今自分の不寛容さを突きつけられたのかもしれません、わかりません。 ただ考えてもみてくださ

          寛容、不寛容。

          正解。

          今日はいい日だった。アイスコーヒーを片手に太宰を読めたんだから、それはもういい日だと思います。今日はいい日だった。 今日は正解ってやつについて考えてみた気がします。正解ってなんだろう、って。簡単に正解なんていうけれども、そんなものはどこにも転がっていない。そんな気がしました。 正しいってことは間違っているということだと思います。評価を与えられるものである以上、どちらの評価も下せる気がします。世の中、確実にあるのは事実だけで解釈なんて山のようにありますから。その中で大多数が

          2日目、迎えたくなかった。

          今日がnoteを書き出して2日目です。実際今日は三日坊主にすらなれない自分、というものを求めて書くのをやめてやろうかとも思いましたが一念発起、こうして文章を綴っています。 さて、今日は随分と怠惰な日常でした。朝起きてゲームをして動画を見て少しの仕事をし、そして寝ようとしています。怠惰な1日、というタイトルで出品できそうなくらい怠惰な1日でした。どこに出品するのかはわかりませんけれども。 そんな今日も少しばかり、ニュースには目を通しました。なんでかってnoteを書くために題

          2日目、迎えたくなかった。

          これからnoteを始めようかな、なんて。

          これからnoteを始めようかな、なんて思う。いやタイトルのまんまじゃないか、なんて。そうなんです、noteをはじめようと思うってそれだけのことなんだもの。 自分は割と、というか結構サボり癖のある方だと思うんです。誰にも怒られなくて、それでいて生きていけるのなら何もしないような人なんです。活動的だとか、そんなものとは本来無縁な人間なんです。でも向上心というか、向上せねばならぬ、なんて変な強迫観念はあるもので。それが僕を何かする方向へ駆り立てています。 いや、そんなことを言い

          これからnoteを始めようかな、なんて。