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『自分の「声」で書く技術』を読んでいる

『自分の「声」で書く技術――自己検閲をはずし、響く言葉を仲間と見つける』著者はピーター・エルボウ。原著の初版は1973年らしい。結構前の本だ。まだ読み終えていないし、完璧に理解してもいない。しかし、すでに少し得たものがあるので書き留めておく。

本書はまず、「フリーライティング」を勧めるところから始まる。フリーライティングとは何か。それは、頭の中に浮かんでくる言葉を書きとどめ続けるということ。時間を設定して、その時間内は手を止めずに書き続ける。手を止めるな。

フリーライティングは、書き手と編集者とを明確に分離する。私たちは書き手と編集者とをあまり分離させずに、書くのと同時に編集をしてしまいがちだ。つねに「正しく」書こうとして、その観念によって逆に書けなくなってしまう。こうした事態を防ぐためには、内なる編集者の力を意図的に抑える必要がある。編集すること自体は悪いことではないが、文章を生み出すのと同時に編集が進むことは問題である。とにかく書く。自己検閲や、編集を介さずにとにかく書く。

10分間のフリーライティング・エクササイズの主な機能のひとつは、編集せずにスピーディーに書く練習をさせてくれることだ。これは慣れていないと難しいことだろう。えてして、文章を生み出そうとする本能より、手を入れて直したい本能のほうがはるかに発達している。だからペン先からフレーズがひとつ放たれるたびに、これはダメだと思う理由が17個も浮かぶ。紙は真っ白なまま。さもなければ、書きかけで線で消した文章や段落が並んでいる。(p.76)

フリーライティングは言葉を生み出すプロセスと、その言葉をページに書き記すプロセスを直結させるエクササイズである。フリーライティングを定期的に練習することによって、言葉を生み出そうとしながら同時進行で編集してしまうという、身にしみついた癖が直る。言葉が出てきやすくなるので、書きあぐねることが少なくなる。紙が次々と言葉で埋まり、ペンをもてあそぶ時間が減る。(pp.54-55)

著者はまた、ライティングの常識が書くのを邪魔していると言う。その常識とは次のようなものだ。

まず言いたいことを考え出そう。それまでは書き始めてはダメだ。計画を立てよう。アウトラインを作ろう。その後でようやく書き始めよう。(p.64)

簡単に言い換えれば、「言いたいことを見つけてから言葉に起こす」べきだという常識である。この常識が私たちが何かを書くのを邪魔していると著者は言う。この常識の核にあるのは「書くことをコントロールする、管理下に置く」という考え方である。

私が教えられて育ったライティングの一般的なモデルでは、コントロールせよと説く。最初に考え、本当に言いたいことを決め、どこに向かうかを前もって把握しておき、計画を立て、アウトラインを作り、迷わず、どっちつかずの態度をとらず、ブレず、言葉に勝手に独り歩きをさせるな、と。そのアドバイスに従おうとすると、当初は満足感とコントロール感を覚える。「しっかり手綱を握って、何にも足を取られないぞ!」。ところが毎度のごとく、コントロールできず、行き詰まりを感じ、道に迷い、何か書こうとして一向に書けない状況に陥るのだ。なすすべがなく、自分からは何もできない。(p.84)

では、どうすればいいのか。著者は「言いたいことを見つけてから言葉に起こす」という2段階処理の代わりに、ライティングを「有機的に発達していくプロセス」と考えてほしいと述べる。

最初から――自分の言いたいことがまったくつかめていないうちから――書き始め、言葉が徐々に変化し、進化していくのを促そう。(p.65)

ここには「とにかく書け」の精神があるように思う。
著者はつまり、コントロールをある程度手放すことを推奨している。計画やアウトラインは必要ない。言葉に勝手に独り歩きさせ、さまよわせ、脱線させよう。

脱線を歓迎することによって、豊かさと混沌の訪れを促せる。私たちは脱線を時間のムダとみなして、脱線しそうになるとあわてて本題に戻りがちだ。だが逆を心がけよう。脱線した話についていこう。それがあなたの書こうとしていたものの要になるかもしれない。(p.85)

強い関心のある分野に出合うには、それに足るだけ長時間書いて、疲労して、あてどなく流されて、さまよって、脱線する必要がある。すべては脱線から始まる。それはまったく別のことを書いているパートの一文に入れた、カッコ内の余談だったりする。感情と本能を好きなように走らせてやろう。(p.78)

とにかく書き始め、書き続けるというのは、なるほど、大事かもしれない。しかし、とにかく書くということには不安が付きまとう。著者も同じ不安に襲われている。

気が変になりそうなわけが、いまさっきわかった。なぜ書き始めては絶望して手を止めているのかが。何度も何度もだ。つらくてたまらない。ようやく自分が感じているものの正体がわかった。自分が何について書いているかわからないまま書いていることに耐えられないんだ! これは本当に心細い。五里霧中。どこに向かっているのかも、来た道もわからない。あてどもなく書くだけ。重心が欲しい。でも書き始めたばからだ。どれが重心なのか、まだわかりようがない。耐えなければ。書き終わらないとわからないだろうから。(p.82)

フリーライティング的に書くということには、「自分がどこに向かって、何について書いているのかわからない」という不安が付きまとう。こうしたとき、どうしたらいいのか。まず、不安をきちんと認識することだろう。おそらく、フリーライティング的に書くということには不安がつきものだということをきちんと認識する。そうするだけで少し不安に対する戸惑いはなくなるだろう。

蛇足

そういえば、レヴィストロースも似たような執筆の仕方をしていたと思うので、引用しておきたい。

私のなかには画家と細工師がおり、たがいに仕事を引き継ぐのです。カンバスに向うまえにデッサンする画家のように、最初の段階では、まず書物全体の草稿をざっと書くことからはじめます。そのさい自分に課する唯一の規律は決して中断しないことです。同じことを繰返したり、中途半端な文章があったり、なんの意味もない文章が混っていたりしても構いません。大事なのはただひとつ、とにかくひとつの原稿を生み出すこと。もしかしたらそれは化物のようなものかもしれませんが、とにかく終りまで書かれていることが大切なのです。そうしておいてはじめて私は執筆にとりかかることができます。そしてそれは一種の細工に近い作業なのです。事実、問題は不出来な文章をきちんと書き直すことではなく、あらゆる種類の抑制が事物の流れを遮らなかったら、最初から自分が言っていたはずのことを見つけることなのです(心中ひそかに私が参照するのはシャトーブリヤンとジャン=ジャック・ルソーです)。

(『作家の仕事部屋』p.198より)

あとがき

本書はまだ読み途中だが、「とにかく書き始めよう」そう思った。しかし、書くことに不安は尽きない。ライティングの常識も完全に脱ぎ捨てられているわけではない。その時は、著者と同じくその不安を書いてしまおう。

すべて完璧に準備が整ってすっかり手のうちにおさまり、書こうとしているものがわかるまで、手をつけるのを延ばそうとしてしまう。書き始めるのにすごく緊張してしまう。いつまでも先延ばしして準備ばかりしてしまう。これから冷たい水の中に飛び込まなきゃいけない感じ。〔…〕スタートラインに立っているのに書き始めたくない。その場に座り込んであれこれ思案し、考え、用意したメモを読み返していたい。こんな日記まで書いてしまった。(p.83)

フリーライティング日記でもつけようか。テキトーにだらだらと思い浮かんだ言葉を書き連ねてゆく。ゆるく書きたいんだ。硬い文章ももちろん良いものだが、ゆるい文体で書いてみたい。書くことに慣れていきたい。気楽に書いてみたい。


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