『自分の「声」で書く技術――自己検閲をはずし、響く言葉を仲間と見つける』著者はピーター・エルボウ。原著の初版は1973年らしい。結構前の本だ。まだ読み終えていないし、完璧に理解してもいない。しかし、すでに少し得たものがあるので書き留めておく。
本書はまず、「フリーライティング」を勧めるところから始まる。フリーライティングとは何か。それは、頭の中に浮かんでくる言葉を書きとどめ続けるということ。時間を設定して、その時間内は手を止めずに書き続ける。手を止めるな。
フリーライティングは、書き手と編集者とを明確に分離する。私たちは書き手と編集者とをあまり分離させずに、書くのと同時に編集をしてしまいがちだ。つねに「正しく」書こうとして、その観念によって逆に書けなくなってしまう。こうした事態を防ぐためには、内なる編集者の力を意図的に抑える必要がある。編集すること自体は悪いことではないが、文章を生み出すのと同時に編集が進むことは問題である。とにかく書く。自己検閲や、編集を介さずにとにかく書く。
著者はまた、ライティングの常識が書くのを邪魔していると言う。その常識とは次のようなものだ。
簡単に言い換えれば、「言いたいことを見つけてから言葉に起こす」べきだという常識である。この常識が私たちが何かを書くのを邪魔していると著者は言う。この常識の核にあるのは「書くことをコントロールする、管理下に置く」という考え方である。
では、どうすればいいのか。著者は「言いたいことを見つけてから言葉に起こす」という2段階処理の代わりに、ライティングを「有機的に発達していくプロセス」と考えてほしいと述べる。
ここには「とにかく書け」の精神があるように思う。
著者はつまり、コントロールをある程度手放すことを推奨している。計画やアウトラインは必要ない。言葉に勝手に独り歩きさせ、さまよわせ、脱線させよう。
とにかく書き始め、書き続けるというのは、なるほど、大事かもしれない。しかし、とにかく書くということには不安が付きまとう。著者も同じ不安に襲われている。
フリーライティング的に書くということには、「自分がどこに向かって、何について書いているのかわからない」という不安が付きまとう。こうしたとき、どうしたらいいのか。まず、不安をきちんと認識することだろう。おそらく、フリーライティング的に書くということには不安がつきものだということをきちんと認識する。そうするだけで少し不安に対する戸惑いはなくなるだろう。
蛇足
そういえば、レヴィストロースも似たような執筆の仕方をしていたと思うので、引用しておきたい。
あとがき
本書はまだ読み途中だが、「とにかく書き始めよう」そう思った。しかし、書くことに不安は尽きない。ライティングの常識も完全に脱ぎ捨てられているわけではない。その時は、著者と同じくその不安を書いてしまおう。
フリーライティング日記でもつけようか。テキトーにだらだらと思い浮かんだ言葉を書き連ねてゆく。ゆるく書きたいんだ。硬い文章ももちろん良いものだが、ゆるい文体で書いてみたい。書くことに慣れていきたい。気楽に書いてみたい。