遥川悠真は永遠になった
こんにちは。都海です。
いつもはツイッターに生息していますが、この良さは書き残しておかねばならない。と思い、初めてnoteを投稿します。
今回、尊敬フォロワーさんのおすすめで『私が大好きな小説家を殺すまで』(斜線堂有紀さん作)という小説を読みました。
リンクを貼ります。
私が大好きな小説家を殺すまで | 書籍情報 | メディアワークス文庫
……遥川悠真………………。
遥川悠真がどれくらい私にとって衝撃波があったのかというと、iPhoneの予測変換で「は」を入れると「遥川悠真」が出るようにしました。それくらいヤバイです。
遥川悠真は売れっ子の小説家です。
遥川悠真に対する初期の印象は「な……なんなんだこの男……私の癖ど真ん中だ……‼️」でした。
登場シーンの第一印象は、生きるガラス細工。
小説でこんなに「美しい人間」の描写ってできるんだ。と思いました。
小説においておこなわれる見目が美しい人間の描写がとても好きなんですが、この小説もそこがすごい。
この小説は、文章で遥川悠真の美しさを表現することに余念がない。
とくに遥川悠真の肌が白い、という表現がかなり印象的でした。
人間の肌の白さを表現するときに、「子供の私よりも白い」「手に垂れたソフトクリームと手の色の境界線がわからない」っていうの、すごい。
そんな美しい彼。性格も儚げ王子様かと思いきや……
違うのです。
踏切の前に立つ小学生の少女に対してかける言葉が「迷惑なんだよ」。
い、印象が深すぎる……。忘れられないキャラになってしまう……。
なんかこの……世の中を嫌っているような感じで……なのに表面上の社交性は身につけていてさ〜「私」の前でだけ素の状態を見せてくれる男……
好きにならないわけがない。
今後も一生遥川悠真の良さについてダラダラ書いてみたいのですが、それはTwitterでやるとして、このnoteでは遥川悠真の「名前」に焦点を当てつつ、彼の人生を考えてみたいと思います。(以下、なんかのモードが入り言い切り口調になります。すみません)
遥川悠真の「名前」について
小説におけるキャラクターの「名付け」は、作者によると思うが意図的に、なにか意味を込められてつけられていることが多い。
とくにこの小説は、とても名前が意識的に名付けられていると感じる。大きな要因としては幕居梓のセリフに「私が幕を引く」というような表現があることから感じられるが、それは「遥川悠真」も同様である。
この小説のラストで、遥川悠真は死ぬ。
(ヤバイ……泣けてきた……)
しかし、そこで効いてくるのが「遥川悠真」という名前だ。
私は遥川悠真が死んで初めて、「遥川悠真」という名前について深く考えた。
「悠」の意味を調べると、「時間的または空間的に遠い、はるか、永遠。どこまでも続く様子。ゆったり、のんびりしている、のどかな様子。気の長い、急がない。」とある。「真」は「偽りではない真実。自然のまま。真の姿。生まれつき、天性の。生まれたままの。」とある。(引用:名付けポン「悠真」名前の意味、読み方、いいねの数は? - 名付けポン)
そこで気づいた。遥川悠真が死んだことで感じていた、「遥川悠真」という名前の矛盾。
悠真、真の永遠。
遥川悠真は死ぬ(終わりを迎える)ことで、その名前に表された「永遠性」が矛盾として際立っている。
いや、逆に「死」が持つ「永遠性」が遥川悠真の名前によって表れてくるようにも思える。
死はたしかに一つの終わりを意味するが、同時にそれは記憶や影響という形での「永遠」をもたらす。それが私が思う、「死」が持つ「永遠性」だ。
遥川悠真は死ぬことで「永遠」になった、または永遠の存在になったのではないか。
私はそう思うようになった。
しかしここにおける「永遠」を表すには、「誰か」が存在しなければならない。記憶や影響は、誰かが存在しないと発生しないからだ。
では、遥川悠真は誰にとっての永遠になったのだろうか。
それはもちろん、幕居梓であると言いたいところだが、幕居梓ではない、と私は考える。
最初は、幕居梓にとって遥川悠真が永遠になったのだと思っていた。
ガラス細工みたいに思えた遥川悠真は、中盤から後半にかけてどんどん「崩壊」していく。私はこの小説で「崩壊」していく遥川悠真が、より「人間」になっていくように感じた。
幕居梓はなにをもって遥川悠真が崩壊したと感じていたのだろうか。
神だった遥川悠真がただの人間になっていくことに対し、「崩壊」と感じたのだろうか。
すると遥川悠真が死ぬことで「崩壊」は終わり、遥川悠真は瓦解することなく「永遠」になったのだろうか。
しかし、幕居梓は遥川悠真が崩壊したと思ってはいても、永遠になった、とは思っていないように思う。私はこの解釈に疑問を感じ始めた。
そこで気づいた。遥川悠真が小説家で、世間に向けて本を出していることに。
本こそ、永遠性の象徴だ。一度作られた本は、簡単には消えない。繰り返し読み継がれ、後世へと、未来へと向かう。
遥川悠真は、遥川悠真の作品を手に取った人間にとって永遠になったのではないだろうか。
遥川悠真が死んだことで、遥川悠真が小説家であったことで、遥川悠真は永遠になったのだ。
やはり、遥川悠真は永遠になるために名付けられたように思えてしまう。
しかし、前述したように幕居梓にとって、遥川悠真は永遠になったとは思えない。
遥川悠真は、幕居梓以外の人間にとって永遠になったように思えてしまうのだ。幕居梓にとって遥川悠真は永遠の存在ではないように思えてしまう。
それは幕居梓が、最後のシーンで黄色い線を踏み越えているからかもしれない。幕居梓が遥川悠真に求めているものは永遠ではなく、神でもなく、今もただ隣にいて手を取ってくれる存在なのだ。
永遠になった存在は、それこそ神格化や偶像化されるようにも思う。しかし、幕居梓が最後に求めたのは等身大の遥川悠真だ。「第三の感情」の答えだ。
その他大勢の中で永遠になった「遥川悠真」は、ただ一人幕居梓にとっては遥川悠真だった。それが救いなのかはわからない。
〜休憩〜
書いてたら辛くなってきた。なんかマジで涙出てきた。心にダメージを受けている。
遥川悠真の人生について
次に、遥川悠真の人生について考えてみたいと思う。
遥川悠真が幕居梓に出会うまでの人生は、きれいにわからなくなっている。
これはこの小説が幕居梓や、さらに他人(警察)視点で紡がれていることによるものでもあり、さらにこの小説は「幕居梓から見た遥川悠真の物語」であるからだ。
そこでこの章では幕居梓が見ていない、遥川悠真が遥川悠真に至るまでの人生をすこし考えてみたいと思う。
そして、遥川悠真と幕居梓の関係性と、その間にあった感情から、遥川悠真のハッピーエンドの可能性を探ってみたいと思う。
遥川悠真から終始感じるのは「孤独」の匂いだ。遥川悠真の部屋にはものがほとんどない。そして、幕居梓に出会うまでは外に出ることも厭っている。遥川悠真の潔癖さが表れているようにも、基本的に人間が苦手であるようにも感じられる。
そこで考えられる疑問は、「なぜ遥川悠真は幕居梓を拾ったのか」である。そこまで人が嫌いな遥川悠真が幕居梓を拾った理由。それは踏切の前で自分の小説を抱え込んでいたことも理由の一つだろうが、私はこう思う。
遥川悠真は幕居梓に、自分の幼少期を見ていたのではないだろうか。
遥川悠真も親から虐げられた人生を送ってきた。しかし、小説を読むことだけが生きがいで、やがて自分も小説を書くようになった。成功し、うまくいっていたときに、過去の自分のような存在を見つけた。
そう考えると、なんとなく辻褄が合うようにも思う。遥川悠真から幕居梓への当初の感情は、憐憫だった。それも、ある種の自己憐憫である。昔助けられなかった自分を助けることで、自分自身も救われていたのではないか。
遥川悠真の印象的なセリフに「神様、この子だけは俺にください」というセリフがある。
私はこれを最初に目にしたとき、かなり驚いた。遥川悠真がそんな感情を幕居梓にもっていたことに驚いたのだ。
幕居梓を独占したいという気持ち。他の人に渡したくないという気持ち。このとき、幕居梓は小学生である。そして、おそらく遥川悠真は子どもを恋愛対象とする人間ではない。
ではこの独占欲はなにによるものなのか。
遥川悠真が幕居梓に自分自身を投影していたからこそ、他の人に奪われたくない、という思考回路になったのではないか。
だからこそ、幕居梓が自分の小説を書き移し始めたときは複雑な思いだっただろう。かつての自分を見出した幕居梓が、本当に自分と同じ人生を辿っているのではないか。嬉しい気持ちと同時に、恐怖もあったのではないか。このとき、遥川悠真は唯一人生において「好き」だった小説を書くことが、できなくなっている。それは遥川悠真にとって、生きる意味すら揺るがすものだった。
そんな中、目の前ではかつての自分自身の再演がおこなわれている。しかし、まだ遥川悠真にとってそれは耐えられることだった。幕居梓は、まだ遥川悠真の模倣にとどまっており、それは遥川悠真にとって幕居梓が「自分自身」であったからだ。
遥川悠真にとって本当に恐れる事態が来たのは、幕居梓が自分自身ではなくなってしまったときだ。つまり、自分自身では創り出せないものを幕居梓が創ってしまった時、遥川悠真は完全に崩壊への道を進み出した。
遥川悠真が幕居梓を愛していたのは、幕居梓が自分自身だったからだ。ある意味の、自己愛。幕居梓が自分自身でなくなったとき、遥川悠真のアイデンティティは崩壊を始める。しかし、遥川悠真の人生から幕居梓を切り離すには、時が経ち過ぎていた。
しかし、私は遥川悠真が幕居梓に向けていた感情が自己愛だけである、とは言いたくない。
遥川悠真はうまくそれに名前が付けられなかったのではないだろうか。
この二人を考える時に重要なのは、幕居梓が遥川悠真を神聖視していたことである。これは二人にとって、共通の認識であった。
幕居梓にとって遥川悠真が神であってほしかったように、遥川悠真は幕居梓の神でありたかった。
幕居梓が遥川悠真に向けていた神聖視、また遥川悠真が幕居梓から感じ取っていた神聖視。
この感情こそ、二人がお互いに神聖視だと誤解していただけで、実は互いへの「愛」だったのではないか。遥川悠真は幕居梓からの愛がなくなるのが怖かった。逆に、遥川悠真は幕居梓に揺るがない愛を向けていた。それが遥川悠真の自己愛に起因するものであったかもしれなくても、その気持ちだけは揺るがされなかった。
幕居梓も遥川悠真がいくら落ちぶれても、暴れても、決して見離さなかった。
それは相手を神だと思っていたからではなく、相手をかけがえのない一人だと、愛を持って見ていたからではないだろうか。
そして、この「愛」は恋愛感情でもあり、ひいては家族愛であったのではないかと私は考える。
幕居梓と遥川悠真は家族の形を知らなかった。だから、家族愛も知らない。
家族を持てなかった二人が、二人でなら家族になれたのかもしれない。
もし、お互いがその感情を神格化ではなく、家族愛によるものだと気がつけていれば、二人は違う道を選べたのかもしれない。しかし、家族愛を知らなかったからこそ二人はそれに気づけなかった。
遥川悠真にハッピーエンドがあったとしたら、そのきっかけは遥川悠真が神格化ではなく家族愛に気づくことだ。しかし、知らないものに気づくことはできない。
また、遥川悠真が家族愛を知っていたら、そもそも自己憐憫にも陥らず、幕居梓を拾ってもいなかったかもしれない。
やはり遥川悠真にはあの結末しかなかったのだろうか。
悲しい。そんなのやだ。なんとかなれ……。
まとめ
ここまで読んでいただきありがとうございました。ここまでの私の話は、私の解釈に基づくものであり、その解釈は人によって大きく分かれるものだと思います。
そのためこの記事を読み、他の考察やご意見を持った方がいたらぜひ私のツイッターに来ていただき、DMを飛ばしてもらえたら幸いです。私は『私が大好きな小説家を殺すまで』の話を他人としたいんだ……。
ありがとうございました。遥川悠真、脳に刻まれました。
※2024年2月11日追記
この記事は、まずは自分の思ったことをまとめたくてあえて他の方の感想や作者の方のツイートなどを一切読まずに書いたんですが、作者の方の過去ツイートを見返していたら遥川悠真の名前の由来について言及されていました。
「遥川悠真は真実は悠久に遥かな川の向こう、守屋は部屋の中の人間を守る、の意味」(1)であり、「『彼の本当は踏切の向こう側』くらいの意味ですし、幕居梓はそのまま『幕の中で小説を書く』(ゴーストライター)の語呂合わせ」(2)だそうです。
引用1: https://x.com/syasendou/status/1079394104289636352?s=46
引用2:
「真実は悠久に遥かな川の向こう」「彼の本当は踏切の向こう側」…………。
あまりにも美しいネーミングに、あらためて脱帽しました。
この作品はどこまでも遥川悠真という、幕居梓にとっての「他者」の話で、遥川悠真の真実は読者にも幕居梓にもわからないのかな、と改めて思いました。私は遥川悠真の名前から真の永遠とその矛盾について考えましたが、作者の方の名付けの意味を知ることで遥川悠真という存在がさらに遠い彼方の存在に思えて、より思いを馳せることになりました。
遥川悠真の真実は遥川悠真にしかわからないけど、それでもそこにあった感情と、幕居梓と積み重ねた年月と、遥川悠真のことを考えたいです。
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