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弱者の部分

2014年1月6日 · facebook投稿

<プロジェクト担当者より>
10年前に書かれたものですのでご注意ください。後半の問題提起が読みどころです。
(補足ここまで)

都知事選に出馬する田母神俊雄さんのツイッターをまとめて読んでみたのですが、文体が上品で端正でやさしく語りかけるユーモアがあります。よく読んでみると「とんでもない」と思うことが多いですが、ヒステリックで怨念的でオヤジ臭がただようほかの(いわゆる)保守の書き手とはちがいます。

てごわいなあ。
2012年9月のツイートに「弱者が権力を握ろうとしています。弱者救済が行き過ぎると社会はどんどん駄目になります。国を作ってきたのは時の権力者と金持ちです。言葉は悪いが貧乏人は御すそ分けに預かって生きてきたのです。「貧乏人は麦を食え」。これは池田総理が国会で言った言葉です」というものがあり、おそらく「とんでもない」と思う人は多いと思います。

しかし、田母神さんは「弱者救済」を大義名分にするリベラルの弱点をじつは見抜いています。

なぜか。豊かになった日本で、「私は弱者だ。弱者を切り捨てる権力者は許せない」と考える人は、「ほとんどいない」んです。これを読んだとき、「私は弱者だ」と痛感した方はいらっしゃるでしょうか? 

少なくともインターネットで時事的な問題に関心があったり抽象的な議論ができる人のなかに弱者はいません。本当に貧困で、職場や家庭で暴力にさらされている弱者は、「ものを言うことをしない、できない」のです。

リベラルの最大の弱点である「自分は弱者ではないのに、弱者を救う」というジレンマを田母神さんは突いています。このツイートは、弱者を攻撃しているのではなく、「リベラルを偽善、欺瞞だと思う人々に共感を得てもらう」のが目的です。おそらく成功しているでしょう。

日本人は豊かになったけれど、「けち」になりました。というか豊かになったから「けち」になったのでしょう。

貧しければ「物」や「気持ち」を身近な人とやりとりすることは普通です。「あの人も困っているんだから都合してやろうか。自分が困ったときの助け合いもあるしさ」という倫理はなくなって、「豊かになった自分がもっているものは、ただであげない。もらおうとする奴は誰でも豊かになれる社会なのに怠けているんだ」と思うようになったようです。文化人類学でいえば「贈与」の問題なのでしょうが、話がややこしくなるのでやめます。

でも本当は日本の多くの人は「ほとんどの部分は強者だけど、一部に弱者の部分をもっている」という状態だと思います。「一部の弱者の部分」をどう共有し、いい社会をつくるか。それが政治や文化の言葉において喫緊の課題だと思いました。

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