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君たちは砂の惑星に負けた。だから踏み台にされるんだ。


君たちは「砂の惑星」に負けた。だから「踏み台」にされるんだ。
大事なことなので2回言った。

ここは「砂の惑星に負けた世界線」だ

まず、私は「砂の惑星」に人を鼓舞してやろう、という気持ちは本質的に一切なく、むしろ馬鹿にして書いたんじゃないかとさえ考えている。
確かに、随所に応援歌として解釈できる余地は残っている。
しかし、それはそういう恥ずかしい本心を隠すために付け加えられたもので、根本的には後ろ足で砂をかけるために書いた詞であると考える。私もそういうテンションで詞を書いて冷静になって捨てた、あるいは誰かに聞かせて怒らせたことはいくらでもあるので、余計にそう感じられる。特にヒット曲を引用しているあたりなんて悪ノリそのものじゃないか。
しかし彼は素晴らしいミュージシャンなので(皮肉ではない)、その嫌らしさを音楽の力によってある程度隠すことに成功している。
おまけにこれはおそらく「ふさわしくない」と判断されれば却下されることが推測できるマジカルミライのテーマソングとして通ってしまい、初音ミク公式のお墨付きのように見えるという「権威」まで獲得してしまった。権威の話をすれば、ハチ自身ボカロPとして、十分に権威ある存在だろう。
つまり、この曲を聞いた各々の第一印象と関係なく、
「あの人が言うなら、その通りなんだろうな」
と思わせる条件がきれいに揃っていた。それがこの曲が論議を呼びながらも受け入れられてしまった理由だと思う。
しかし私には前述の通りこの曲が「VOCALOIDという文化」をリスペクトして鼓舞するために書いたものには到底感じられないし、無理にそういう要素を抽出して肯定する必要を感じない。素直に歌詞の大半を占める皮肉が本質であるととらえて、後ろ足で砂をかけたというのが正確だと思う。ご丁寧にタイトルに「砂」って入ってるし。
しかし、そういう声が大きくなり、拒絶されることはなかった。
そして皮肉なことにほとんど無批判に受容されたことによって、この曲の意味は消滅し堕してしまった。仮に私の解釈が間違っていて、この曲が本当に応援歌だったとするならなおさらだ。
よってここは「砂の惑星に負けた世界線」になってしまったのである。

負け犬だから踏み台にされて怒りもしない

そういえば、今年はとある新鋭ボカロPが「ボカロは踏み台」と公言し炎上した、なんてこともあった。
過激な反対派が発言者のタグを荒らすなどの同調しづらい行為に走ったことや、冷静に諌める発言が多かったことからすでに鎮火したが、私に言わせれば「砂の惑星に負けた世界線」を象徴するできごとだったように思う。
だって君の好きなものを「踏み台」にすると堂々と言い放ったんだぞ。もっと怒っていいだろうそこは。
そもそも本当に「踏み台にしてのしあがってやる」と思っているなら、なおさらこんなことを言うべきではないことは考えればわかる。その地点でこれは単なる迂闊か、そうでなければ炎上商法でしかない。タグ荒らしなどの暴力は肯定しないが、発言したことを批判されること自体に擁護の余地はないと考えている。

私がこんな記事を書くほどに腹立たしいのは、こういった行為に対して怒りを抱くことそのものを否定する空気が界隈に蔓延していることである。
確かにタグを荒らしたり、クソリプを送るような行為はよくないだろう。そういった暴力的な行為を肯定するつもりはない。
だからといってリスペクトのない行為に怒りを抱くことそのものを否定するのは、本当によいことなのだろうか?
リスペクトのない人間に自分の好きなものを踏みにじられる行為を暗黙的に肯定することは、本当によい態度なのだろうか?

でも、みんなが負けを認めたわけじゃない

世界の新着動画、Nsen、にゃっぽん……確かにVOCALOID界隈が失ったものは多いかもしれない。
しかし、各種ランキング動画は引き継がれているし、各VOCALOIDの曲紹介ラジオなどは今でも続いている。この2年で、コミュニティを作ってサーバー代を払い続けている人、どうしても関東圏に比べれば条件の厳しい関西でのボカロライブを成功させようと東奔西走している人、他にも数え切れないほど熱くVOCALOID文化を愛する人に出会った。未だにボカロPは新曲を書き続け、新規参入さえ存在し、あのクソ高くてクソ使いづらいV5でデビューしたボカロPすらいるのもすごいことだ。そもそも私ごときのなんの戦略も持たない新参が何百再生もされること自体が異常なことだ。最初は真面目に「運営が気を利かせて再生数を盛ってくれているのでは?」とまで考えたが、今ではそれを恥ずかしく思う。衰退だのなんだの言われながら、そんな空気とは関係なくそういった熱量を持った人間はまだ実在するのだ。この目で見たからこそ言える。
それが「砂の惑星」の動画の最後で示唆されている「木を植える」という行為ではないだろうか。あるいは「風が吹き曝しなお進む」ということではないだろうか。君たちは適当にそれっぽく組み上げた論理で「砂の惑星」だの「踏み台」だのを受容するくせして、そういった行為の尊さと、そのありがたみは理解しようとさえしていないのではないだろうか。というか「砂の惑星」を受容するつもりならその安易な態度は矛盾しているのではないか。
リスペクトを欠いた態度さえ受容するべきだと小賢しくアピールしている暇で、もっと応援するべき人間はたくさんいる。できることはたくさんある。別に曲を作り絵を描き動画を仕上げモデルを配り動かすだけが貢献じゃない。見たことのない動画を聞くだけでも貢献だ。「わこつです」「うp乙」だのコメントするだけで十分立派だ。自分が好きなものにもっと胸を張って生きろ。胸を張って生きられないなら、胸を張るためにできることは全部しろ。

では、なぜ衰退論が生きているのか

もう一度言う。ここはあの曲が言う「砂の惑星」よりももっとひどい「砂の惑星に負けた世界線」なのだ。
確かに負けはしたが、新曲は供給され続ける。よく知られているもの、知る人ぞ知るもの、たくさんの名曲もある。
マジミラ、殿堂入り、完売、壁サークル、メジャーデビュー。そういった夢もある。
はっきり言って十分な居心地だ。負け犬にはすぎた待遇だ。
自己や自己の所属するコミュニティーに対する批判を受け入れることは賢く冷静――すなわち、優れた人間になったように思える行為であり、実際様々なコミュニティーの集まりである人間社会を維持していくには必要な態度でもあり一概に否定することはできない。
しかし、それは同時に情熱、もっと直接的にいえば愛を削ぎ、次第に怠惰が蔓延するようになっていく。
この「怠惰」こそが、この界隈に漂い続ける「衰退感」の正体ではないのだろうか。

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