図形研究部の話

高校一年生の四月から六月の間だけ、私は「図形研究部」に入っていた。退部したあと、部員の先輩達には一度も会わないまま卒業してしまった。今インターネットで検索しても母校の図形研究部のことは出てこない。それどころか、図形研究部という言葉自体ネットのどこにもない。しかし図形研究部での時間は私の人生において、最も心地よく、最も幾何学的で、確かなものだった。

ある日部室に入るとトモちゃん先輩と翔先輩が黒板の前で何か言い合っていた。
「あ、山下さん、いらっしゃい」
「何の話してるんですか?」
「正十二面体の体積の三等分の話。」
黒板には白いチョークで正十二面体が描かれていて、赤いチョークで細かく線を描いては消したり、計算式を書いたりした跡が残っている。
「ここにこう……線を引いたら三つ同じ形ができるんじゃないですか。」
「それが、この本によると水平に線を引いても三等分できるらしいんだよね。」
翔先輩が気怠げに本のページを繰って、私に見せた。
「うーん、わからないです……」
「今日はこれについて考えようか。」
トモちゃん先輩がルーズリーフに正十二面体を手際よく描いて、頬杖をついて考え始める。翔先輩は黒板の前でチョークを構える。私も荷物を下ろして、図形だらけのノートを出して正十二面体を描いた。

もともと図形研究部になんて入るつもりはなかった。中学ではテニスに精を出し、高校でもテニス部に入るつもりだった。それが、友人の里香に、自分とあと一人図形研究部に入る新入生がいないと即廃部な上に、すごくかっこいい先輩が部長で、どうしても話しかけたいのだと懇願されて、テニス部と掛け持ちすることに決めた。しかし唯一の三年生というだけで部長を務めている「須田先輩」は幽霊部員で、飽き性の里香はすぐに退部してしまった。私はといえば、特に数学が得意というわけでもなく計算が速いわけでもないけれど、トモちゃん先輩や翔先輩がいる部室の居心地の良さに甘えて居座り続けている。

「こうなったら須田先輩に聞きに行こうか」
二時間ほど考えて、トモちゃん先輩が言った。ぐしゃぐしゃに丸めたルーズリーフの山ができている。
「あの人なら天才だから、捕まえられればすぐ解いてくれると思うけど。トモちゃんが聞きにいってくれる?」
「須田先輩、逃げ足速いから私じゃ逃げられちゃう」
翔先輩は「シンソコ面倒」という顔をしている。ふたりはよく須田先輩の話をするけれど、私は一度も須田先輩を見たことがなかった。私が入部した四月から六月の今日まで須田先輩は一度も部室に顔を出していなかった。
「須田先輩、ってどんな人なんですか」
「山下さんは会ったことないのか。」
翔先輩がチョークを転がしながら言う。
「じゃあ、山下さんが連れてきてよ。顔バレてないんだから、捕まえやすいでしょ」
「顔も知らないのに?」
「C組で須田先輩いますかって聞けばわかるから。」
私はふたりの期待した眼差しに負けて、「わかりましたよ、明日聞いてきます」と応えた。

三年生のフロアは、一年生のそれよりずっと赤い口紅が点滅し、黒髪マッシュが揺れている。制服を着崩した生徒がポケットに手を突っ込んでケラケラ笑っている。
「あのぉ……須田先輩って、いらっしゃいますか」
「須田ならあそこだけど。」
白いオーバーサイズのベストの、茶髪の女の先輩が、パックの牛乳を吸いながら後方を指さす。
「失礼します……」
教室の隅の席でイヤホンをしている男の先輩の肩を叩くと、イヤホンを外して私を振り返った。
「一年の山下とじるです。須田先輩ですか?」
「そうですけど、何かご用ですか?」
須田先輩は、丁寧にアイロンをかけたビシッとしたシャツに、校則指定の緑のダサいネクタイを締めて、ハリーポッターのような眼鏡をかけている。天然パーマなのか、ふわふわした黒髪。長い睫毛が私を見上げた。こういう感じが里香のタイプなのだろうか。確かによく見れば端正なカオダチをしている、かもしれない。
「図形研究部の一年生です。わからない問題があって、先輩方が須田先輩をお連れするようにと」
「やだ。今解くから問題読み上げてください」
三人がかりで二時間かけた問題を解くと言われて、私は少しムッとした。
「正十二面体の三等分を、置いた地面に水平な線のみで行う問題です」
「まず10個点を打つんですかね?」
須田先輩が言った。本にもそう書いてあったので、私は押し黙った。
「式を書いてもいいですよ。」
須田先輩が宙に文字を書き始めたので、私はその手を掴んでやめさせた。
「そんなことが聞きたいわけじゃないんです、それは本に書いてあって」
「何が聞きたいんです?」
「……何故部活に来ないんですか?図形好きなんじゃないんですか?すごく頭がいいんですよね?」
須田先輩は少し考えて、「頭が良くなんてないんですよ」
眼鏡を押し上げて、ぼそぼそと続けた。
「ただ好きで覚えてるだけです。本を読んだり、ネットで調べたりして。自分で思いついた解法はひとつもない。全部記憶しているものか、その応用です」
「でも、それも才能ですよね」
「何の役に立つ才能ですか?」
須田先輩は微笑して続ける。
「翔くんとトモちゃんは僕とは違います。僕はあの二人に比べて圧倒的に生まれ持ったハングリー精神が足りてない。」
私は怯えていた。次に言われる言葉に、怯えていた。
「山下さん。君はさっきから、頭が良いからとか、図形が好きだからとか、決まりきった定規でしか物事を測れてない。」
唇を噛んでも震えが止まらなかった。
「君は、図形研究にあまり向いていないでしょうね。僕と全く同じ類の人間です」
その言葉を言われることだけが、怖かった。
私は目の前の男に強く惹かれると同時に、ひどい嫌悪感と怒りをおぼえた。

私は次の日、顧問の教師に退部届を出した。やけに激しく雨の降る六月の日だった。

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