雨天決行

※わりとBL


一色先輩がフルートを吹くと、乾いた音楽室に雨が降る。一色先輩が話す言葉だけは、楽器の音にかき消されないではっきりと耳に届く。一色先輩が笑うと、俺は視線を逸らしてしまう。

高校は吹奏楽の強豪校である桜川高校を受験した。中学の始めから続けてきたホルンは唯一の特技だった。桜川高校の演奏は動画サイトで聴いて、部員の楽しそうな顔とハイレベルな演奏、アドリブ満載のソロに惹かれ、どうしても桜川高校に入りたくなった。桜川は、強豪校でありながら吹奏楽推薦枠がなく、偏差値も高いため、必死に勉強してどうにか合格した。
入部したらすぐに、夏のコンクールに向けての練習が始まった。出られるのは部員のうちの実力があるほんの一握りで、俺は一年生のときコンクールの選抜メンバーに入れず、他の選抜されなかった部員たちと一緒に選抜メンバーとは別のところで練習していた。
ある日、指揮者でもあり顧問でもある先生が、良い刺激になるだろうから選抜メンバーの演奏を聴いてみろと俺たちに言った。俺は正直、一年生だから選ばれなかっただけで、選抜された部員よりも上手いであろうという自信があった。
しかし甘かった。先生が指揮棒を構えた瞬間、音という音が止まり、呼吸の音さえ耳障りなほどの緊張感を持って全員が楽器を構えた。指揮棒が振られ、音楽が始まる。自由曲の、『ニュー・シネマ・パラダイス』。サックスの音を皮切りに始まる映画音楽である。流れ出した美しい旋律に目を見張った。原曲ではサックスのソロのところをフルートが担当すると同じホルンの先輩から聞いていたが、実際に聞くのは初めてだった。しかも三年生ではなく、抜群に上手い二年生の一色先輩が吹く、と。
ソロが始まる。特別気張るでもなく、さりげなく、しかし堅い意志を持って、まるで優しい歌でも歌うようなフルートの音色が音楽室を包み込んだ。
雨のようだと思った。乾いた大地に降る恵みの雨。はたまた六時間目の授業中に降り出した静かな午後の雨かもしれない。柔軟で、しかし少し傷つければすぐにはらはらと砂になってしまいそうなほど繊細な音色。少しのズレもない、いやわざとほんの少し高くしているのだろうか、耳に心地よいピッチである。この音をずっと聴いていたい。純粋にそう思った。
そして、いとも簡単にその音色に恋をした。

それから月日が経って、俺は二年生になった。一色先輩は部長になっていて、完全に俺なんかじゃ全然手の届かない雲の上の人だった。
うちの部は部活動勧誘も手を抜かない。毎年中庭と校門付近で五十人ほどの二年生の部員全員で協力して、一年生に吹奏楽部の宣伝用のチラシを配る。
「角野ぉー、チラシ足りんわ、第二音楽室にもうちょっとあった気ぃするから取ってきてくれん?」
中庭でチラシを配っていると、トロンボーンの深町が大声で俺に言った。
「なんで俺?自分で行きまっし」
「ジャンケン、ジャンケンな」
結局ジャンケンに負けた俺が五階の第二音楽室までチラシを取りに行かされることになった。

「なんで俺がこんな遠いところまで行かされるん、ある分のチラシ全部持ってきときぃや」
ぶつぶつ言いながら、もうほとんどの生徒が帰宅したので人気のない校舎の階段を上がっていると、フルートの音色が聴こえてきた。
「……美女と野獣」
美しいビブラートとどこまでも深みのある音色が、映画のベルと野獣が踊っているシーンを思い起こさせる。一色先輩の音だ。しとしとと降る春の雨のような音色に導かれるようにして校舎の三階の隅の空き教室へたどり着いた。少しだけ空いたドアの隙間から覗くと、一色先輩がひとりでフルートを吹いていた。目を伏せてしばらく吹いて、少し何か考えてから鉛筆で楽譜に何やら書き込んだりしている。覗き見に立ち聞きなんて悪いとは思ったけれど、ずっと一色先輩を目で追っていた俺ですら一色先輩の自主練なんて一度も見たことがなくて、気になって目が離せなかった。
繰り返し美女と野獣を吹いていた先輩が不意に視線を上げ、俺と目が合った。しまった、と思ったが時すでに遅しで、先輩が少し驚いたような顔をして吹くのをやめ、ニヤッとしてこちらに手招きした。途端に顔が熱くなって心臓がバクバク鳴り出し、俺は一色先輩に手招かれるまま目の前に行って、「ごめんなさい」とか細い声を漏らした。
「いつから見とったん?」
「あ、え、結構前から」
「全然気づかんかったー、気づいたとき心臓止まるかと思ったわ」
柔らかな語り口調。一色先輩と話すのは初めてだった。憧れの先輩を目の前にして俺はガチガチに緊張していた。
「すぐ出ていきます、邪魔してすんませんした」
「まあまあ、ちょっと話して行きまっし。忙しい?」
「いや、忙しくはないですけど…」
すまん深町、先輩と話せるチャンスなんて二度とないかもしれんねん。
「適当にその辺座っていいよー、えーと、違ったらごめんやけど、ホルンの角野くん?」
「えっなんで、俺の名前」
「部員は全員名前覚えてるつもり。特に、君、赤髪やから、入部したてのときから目立ってたし。一年に軽音部みたいな子ぉおるなと思っとったよ。」
一色先輩が微笑む。それだけで、ああ好きやなあ、と思ってしまうから俺も単純である。
「どうやった、盗み聞きした俺の演奏は」
「超最高でした、そりゃもう、俺なんかが聴いてていいのかってぐらい」
「はい、絶対嘘ー」
「ほんとですよ!本当に俺、めっちゃ一色先輩に憧れてるんです、ずっと」
俺がムキになって言うと一色先輩は目を丸くして、照れくさそうに笑った。
「そんなはっきり言われると嬉しいなぁ、でも俺なんかフルート教室の先生にも叱られてばっかやよ、個性もないって言われるし」
「個性ないわけないやないですか!一色先輩の音は…雨みたいです」
「雨?」
「あ、いや、じめじめしてるってことやなくて、例えば今日みたいなあったかい日の優しい雨、お前の傘入れてーやとか、ここのスタバで雨宿りして行ことか、はよ洗濯物取り込まんととか、そういうの全部包み込んでくれる雨みたいに、おっきくて、優しくて、でも切なくて、懐かしいんです」
きょとんとしていた先輩が不意に吹き出した。
「角野くん、詩人やね」
「あ、すんません、変なこと言って」
「いや、褒めとる褒めとる。折角やし、なんか吹いてあげようか、リクエストしてや」
一色先輩が軽く音階を鳴らして音出しした。
「えっ、いいんすか」
「うん、いいよ。俺で良ければ」
「…先輩の『ニュー・シネマ・パラダイス』のソロが聴きたいです」
「あぁ、去年のコンクール曲の。」
先輩が窓を開けた。やわらかい風が入ってきて譜面をパタパタと揺らす。窓枠に腰掛けた一色先輩が窓の外を見下ろして指さした。
「こっから、中庭見えるんよ。生演奏聞かせて宣伝しようかな」
俺も窓から顔を出して外を見ると、部活動勧誘をする各部の二・三年生とチラシを受け取る一年生がたくさん中庭に集まっているのが見えた。しばらく見ているとこちらに気づいた吹奏楽部員が一色先輩に手を振った。
「あ、おい角野!サボっとるやんけ!」
こっちに気づいた深町が大声で言った。深町に向かってごめんな、と両手を合わせる。
「じゃ、聞いとってや」
ニコニコしていた先輩がすっと真顔になった。楽器を構え、たっぷり間を置いて、柔らかく音楽を紡いでいく。
美しい。息を呑むほどに美しく、儚い。宝石のように美しく輝いているというよりは、道端にひっそりと咲いている名も知らない美しい花のようで、まっすぐに心を揺さぶられた。
中庭にいた人達が皆、こちらを見上げる。全員が一色先輩に注目している。先程までのお喋りをやめて、口を半開きにして聞き入っている一年生もいる。目を瞑って聞いているサッカー部のユニフォームを着た二年生もいる。
先輩の音を聞くと懐かしい匂いを思い起こす。ああ、この匂いは、小学生のとき夏休みに入る前日に雨が降って、片手に傘、片手に大量の荷物を持って帰ってびしょびしょになったあの日の校下のコンクリートの匂い。それから、中学に入りたてのとき吹奏楽部に体験入部をして、生まれて初めてホルンを抱きかかえたあの雨の日の、音楽室の匂い。
気がついたら俺は泣いていた。
先輩がソロを吹き終えると中庭では大きな拍手が起こり、先輩はぺこりとお辞儀をした。そして外から顔を見られないよう少し下がって泣いていた俺に「あるよなぁ、何気ない音楽がむちゃくちゃ刺さることって」と微笑んでティッシュを差し出してくれた。
「角野くん、観た?『ニュー・シネマ・パラダイス』。」
「観ましたし、泣きました」
先輩が、俺も、とうなずいて、続けた。
「今の、あのシーンみたいやなかった?アルフレードが映写機動かして広場の家の壁に映画映して、みんながそれに気づいて大喜びするシーン」
「それやったら、俺がトトで、先輩はこのあと火事で失明するんですね」
「確かに。」
先輩が、へへ、と笑ってから俺を見て、「そういえばさっき、徹に呼ばれとった?」と言った。
「あ、俺そろそろ行かんと怒られるかもしれないです」
「そうなん?忙しいとこ呼び止めてごめんなあ、俺よくここで一人で練習してるからまた来てや。ここ空き教室みたいで誰も来んねん、一緒に練習しようや」
「いいんですか。」
「うん。ちょっとだけやけど俺ホルンも吹けるから、教えられるかもやし」
「えっ、そうなんですか」
「親の趣味で、家に楽器いっぱいあるから。」
憧れは近くで見ても憧れだった。
俺は昼食のあとは毎日、いつもその教室に楽器を持って行った。部活がなくなった日の放課後やテスト前の部活のない日も、どんなときでも先輩は必ずそこにいた。
これが果たしてただの憧れなのか、恋愛感情なのかはわからなかったし、そんなことはどうでもいいと思った。

「失礼します」
「お、いらっしゃーい」
ある日教室に着くと、先輩は教室の棚に置いてあったトマトの絵の描いてある少し大きな缶を抱えていた。
「なんですか、その缶」
「この缶なー、この教室にずっとあるんよ。可愛くない?実はこれに五百円貯金しとるんやけど、貯まらんったらもう。」
一色先輩に渡された缶の底の方には五百円玉が少し溜まっている。
「何に使うんですか?」
「んー、教えられんな」
「ええ、教えてくださいよ」
「秘密。」
喉の奥の方が苦しくなった。先輩のことは何だって知りたい。でもそんなことを口にすればきっと優しい先輩を困らせてしまうだろう。俺は、問い詰めたい気持ちをぐっとこらえて言う。
「五百円玉、上まで溜まったら、教えてください」
「そうやなぁ。あ、エロいことに使うんやないよ。」
先輩が笑う。あぁ、冗談と他人行儀な笑顔で誤魔化された。完全に心の壁を作られた。下手に首を突っ込もうとするんじゃなかった。激しい後悔に襲われた。
「練習しようか、もうこれのことはいいから」
先輩が缶を置いて微かに笑う。
「そうですね。」
同じ教室で同じように息をしているのに、先輩は全然手の届かないところにいるようで、歯がゆい。雨の中を傘を差して歩いている一色先輩をびしょ濡れで走って追いかけて、何度も先輩の名前を呼んでいるのに、その背中との距離はいつまでも縮まらないような、夢の中でもがいているような感覚がする。
この教室で一緒に練習するようになって、先輩も俺のことを少しは特別親しいと思ってくれている、だなんて、なんという思い上がりをしていたのだろうか。きっと先輩は、俺だけではなく、誰にも貯めたお金の使い道を教えないだろう。雨が誰にでも平等に降るように、先輩はみんなに等しく優しいけれど、等しく線を引いてそれ以上踏み込ませない。
それに気がついたとき、先輩はずっと世界に背を向けて孤独の中で静かに涙を流しながら、深い哀しみの縁でフルートを吹いているのだと思った。先輩のフルートの音色はより一層、美しい、だけでは言い表せない含みを伴って聴こえた。

夏休みに入ると、夏の大きなコンクールに向けて吹奏楽部は本腰を入れて練習する。朝八時半に音楽室に集合し、夜九時に解散で、それ以降は帰るもよし、十時半過ぎまで練習するもよしなのだが、コンクールに出る部員はもちろん、出ない部員までほとんど全員が居残って自主練やパート練習に励んでいる。
俺は解散したあといつもあの教室で、一色先輩にアドバイスをもらったりしながら血眼で自主練をしている。なにしろ去年は出られなかったコンクールである。しかも二年生の中にも選抜されず悔しい思いをした部員もいるので、生半可な演奏は許されない。
「角野くん角野くん、俺の自由曲のピッコロのソロ聞いてくれんけ?こうした方がいいとかどんどん言ってほしいんやけど」
ある日の自主練中、例の缶に五百円玉を入れて眺めていた一色先輩が不意に俺に言った。今年の自由曲は『ミュージカル「レ・ミゼラブル」より』。ピッコロはフルートの部員が吹くのが一般的で、一色先輩はピッコロとフルートをところどころ持ち替えて吹く。
「いやいやいや、俺なんか先輩の演奏に口を出せる力量やないですって…」
「何言っても怒らんから!めっちゃ的外れな事言ってもいいから!俺、そんな心狭くないやろ?」
俺が何か言おうとしたところで先輩が教室の机に座ってピッコロを構えたので、先輩の演奏の邪魔をするわけにはいかず俺はぱっと口を閉じた。
『レ・ミゼラブル』の『民衆の歌』のピッコロのソロが口火を切って、この曲はラストスパートを迎える。俺は自由曲が決まってから映画『レ・ミゼラブル』を何度も繰り返し見たため、音楽室やこの教室で先輩のソロを聴く度に映画のラストシーンが目に浮かんでくる。しかし、こうして改めて向き合って演奏を聴くのは初めてだった。
ピッコロの音が乾いた教室に響いた。
音量はメゾピアノ。でも力強くて芯がある。美しいだけではない。目の覚めるような強い意志が宿っている。
ソロの部分が終わっても先輩は吹き続けた。ピッコロのパートはなかったはずの部分だ。メゾフォルテ。そしてフォルテ。瞬きひとつできない。目が離せない。血を流しても抗い続けた民衆達の声が聞こえる。船の上で旗を振っているのが見える。飲み込まれそうだ。
曲の最後まで一人で吹ききった先輩は、「どうやった?」と照れくさそうに言った。
「先輩の吹く音…本当に好きです」
考えるより先に、するっと言葉が出た。先輩は一瞬きょとんとして、吹き出した。
「どこまでもまっすぐやなぁ、角野くん」
「あ、すみません、抽象的で」
一色先輩が俺を見て可笑しそうにニヤニヤしているということは、今顔赤くなってるんやろうな。
「でも、五月頃の、練習始まったばかりのときと全然吹き方違いますよね…前はただ軽快な感じでしたけど、今はもっと力強くて説得力のある音、俺は今の方がずっと好きです」
そう言うと先輩ははにかんで肩を竦め、「角野くん、人の演奏よく聴いとるじ」と笑った。
「意見して欲しいって言ってんけど、ほんとは聴いて欲しかっただけなんよ、角野くんに。」
思いがけない発言に、理解するまで数秒かかった。驚いて先輩を見ると、「『ロミオとジュリエット』も息抜きにちょっと練習したんやけど、聴いてくれん?」と先輩が言って、音が出ないようにフルートに息を吹き込んだ。
「い、い、いいんですか」
「うん、聴いて欲しい。」
先輩と目が合った。初めて、ちゃんと目が合ったような気がする。先輩はいつも、何でもお見通しなのに、ずっと背中しか見せてくれないから。
夏とはいえ夜九時を回っているので教室の外はもう真っ暗で、遠くから自主練をしている様々な楽器の音が微かに聞こえてくる。ふと、甘い香りがした。
フルートを構えた先輩が軽く目を伏せて、睫毛の影を落とした。息を吸う音も聞こえないうちに、空中から不意に音をつかんで取り出したような、繊細なフルートの音色が響き渡った。
ああ、どうして先輩の音色は、いつも強くて美しくて、こんなにも哀しそうなのだろう。

その日も合奏練習が終わったあと、いつもの教室で各々練習をしていた。
すると突然バーンとドアが開いた。驚いて見るとそこに立っていたオーボエの三年生、田仲先輩が、片手に楽器を持って、「よっす!」ともう片方の手を上げた。
「一色こんなところにおったんや、探したわ!練習中にごめんな!」
田仲先輩は大きな声でまくしたてて、ずけずけと教室の中に入ってきた。校舎の隅の隅にあるこの空き教室に俺と一色先輩以外の人が出入りするところは一度も見たことがなかった。聖域に土足で入ってこられたような気がして反射的に顔をしかめた俺には目もくれず、田仲先輩はどかっと適当な椅子に座った。
「びっくりした。どうしたん、急に」
「ちょっと合わせたいところあるんよ、大至急。『夢やぶれて』の俺のソロのところなんやけど」
「あー、了解。じゃあここから、こっちのメトロノームに合わせて。一応チューニングする?俺のチューナー使っていいよ」
三年生の二人がB♭で音を合わせ始めた。俺と喋っているときより一色先輩はなんだかラフな口調で話しているような気がする。フルートとオーボエ、同じ木管楽器の音のピッチがぴったり合って、震えが止まり、違う楽器なのに一人が吹いているかのようにユニゾンする。部員や顧問に認められている実力派の二人のユニゾンがあまりにも美しかったので、恐ろしくなって、俺は気に留めないフリをして自主練を始めた。
「じゃあ田仲ちゃんのソロから。好きなタイミングで入って」
田仲先輩が楽器を構えて、メトロノームに合わせて吹き始めた。田仲先輩のオーボエは、重たくて深い音がする。絶望を歌うようなオーボエのソロを一色先輩のフルートが悲哀と悲壮感を混じえて支える。俺は思わず自主練をやめて聞き入った。感情的でありながら正確無比な音程にリズム感、完璧すぎる二人のバランス。全身に鳥肌が立つほど神々しく、圧倒される。同時に激しい嫉妬心と嫌悪感を抱いた。オーボエのソロの終わりの区切りの良いところまで吹き終わって、一色先輩が口を開いた。
「良かったんやない?結構合ってきた気ぃするわ。田仲ちゃんのソロ、仕上がってきてるやん」
「やろ?ほんでな、できればやけど、この小節のところもう少しエモくできる?さっきの合奏のときも、ここだけちょっと気になっとってん。」
田仲先輩が譜面を指さして言う。田仲先輩の、エモい、という簡素な表現に苛立った。
「確かに。エモい感じな。オッケー、もう一回お願い」
一色先輩にそんな言葉を使わせるな。一色先輩の音楽はもっと、叙情的で、文学的でなければいけないはずなのに。一色先輩は少し考えて、鉛筆で譜面に何か書き込んで、楽器を構えた。
もう一度二人が同じところを合わせる。一色先輩の吹き方が先程とは違うことにすぐ気がついた。具体的な言葉にはできないけれど、確かに、僅かに「エモく」なっている。その僅かな違いによって音同士が響き合って、ただの1+1ではない底なしの音の湖へ導かれ、二人が構築する世界にさっきより深く引き込まれていく。
俺は、田仲先輩のように一色先輩と肩を並べて歩くことはできないのだと思った。一色先輩の背中を追いかけて、やっと振り向いてくれたかと思えば、一方的に一色先輩の奏でる音を聴くことしかできない。あくまで演奏者と聞き手の関係でしかない。
「かなり良くなっとるよね?田仲ちゃんはどうやった?」
「今の本当に良かったと思う。全国も、金賞間違いなしや」
「そうやな。言いに来てくれてありがとうな。」
心做しか一色先輩はいつもより生き生きとしているようだ。何故だろうか、スクリーン越しに映画を見ているように、二人に現実味がない。俺と全く、次元が違う。
「ていうかこんな教室あったんや、知らんかった。あ、邪魔してごめんな、ホルンの赤髪。」
「コラ、角野くんや。」
一色先輩が苦笑いして注意した。俺は慌てて立ち上がって「おはようございます」とお辞儀した。
「おー、赤髪の子がおるなーとは思っとってん。部長と練習頑張っとるんやー、がんばりまっし!」
田仲先輩が俺の赤髪を撫でながら満面の笑みで言った。フレンドリーで眩しすぎて、こちらが鬱になりそうである。頭痛がするような気がしてきた。
「こんなところよく見つけたなぁ。いい穴場スポットやん。ん、これ何?貯金しとるん?」
田仲先輩が棚においてあった缶を見て言った。俺が思わず、あっ、と言う前に田仲先輩は缶を乱雑に手に取って蓋を開けた。
「ふーん、五百円貯金か。渋いなぁ。こういうちまちましたことするのは一色やろ」
頼むから、と俺は心の中で叫んだ。何も要求しないから、これ以上俺のパラダイスを荒らさないでくれ。
「わかる?そうやねん。でもなかなか貯まらんのよ、これが」
「へぇ、貯めて何に使うん、これ。」
田仲先輩に尋ねられて一色先輩がふと黙った。
「お、なるほど、やましいことやろ?」
「違うわ。卒業したらちょっと海外行こうと思ってるから、その足しになればいいなと思っとってん。」
「えっ?先輩海外行くんですか?」
驚いて、考えるより先に言葉が出た。卒業後、海外留学して吹奏楽の腕を磨く部員も毎年いるけれど、一色先輩が留学するなんて聞いたことがなかった。
一色先輩は、心底きまり悪そうに、「うん、まあ、そんなつもりなんよ。」と笑った。

その夜、どうしてこんなに心が痛いのだろう、と布団の中で考えた。先輩が外国に行ってしまうからではない。勿論それも相当ショックだったけれど。
誰も特別じゃないなら、特別になれなくてもいいと思った。毎日顔を合わせているのに、留学するなんて一度も聞いてないし、そのために貯金していたなんて教えてくれなかった。でも、田仲先輩に訊かれたら簡単に答えた。それが事実で、それが全てだった。
汚い嫉妬心がぐるぐる渦巻いている。自分が気持ち悪い。田仲先輩は真摯に音楽と向き合っていて、一色先輩とは気の置けない良い友達でありライバルなのだと頭では理解しているけれどうまく割り切ることができない。
俺のこの独占欲にまみれた気持ちはただの憧れなんかじゃない。心のどこかではそれに気づいていたのに、見ないフリをして、本心を隠して、一色先輩に近づこうとした。こんな狡くて汚い感情、先輩に見透かされたら生きていけない。
俺は次の日、生まれて初めて部活をサボった。深町からの着信も、一色先輩からの「大丈夫?お大事に!」というメールも無視して、ひどい自己嫌悪に駆られて食事もとらずに寝込んでいた。

その翌日、流石に二日も休んだら腕がなまって遅れを取ってしまいそうで、重い足どりで音楽室へ向かった。朝から一色先輩を避けて過ごした。一瞬でも目を合わせたら、昨日体調なんか悪くなかったことも、田仲先輩を目の端に捉えただけで嫉妬で気が狂いそうなのも、吐き気を催すほどの一色先輩への想いも、全部すぐにバレてしまうような気がした。
合奏練習が終わって楽器を背負ってそそくさと帰る準備を整え音楽室を出ると、「角野くん」と後ろから声をかけられた。聞きなれた声に背を向けて聞こえないフリをして階段を下る。
「角野くん!」
聞いたことのない、責めるような大きな声に、足を止めざるを得なかった。
振り返って、一色先輩の怒った顔、その目の奥に心配と不安の色が宿っているのを見て、泣きそうになった。
「ごめんなさい…」
「露骨に避けてたやんな、俺のこと。目も合わせてくれんし、部長として喋っとるときも下向いてたやん。いっつも俺のこと真っ直ぐ見て、一番はっきり返事してくれるのに、変やなと思って、ずっと気になっとった」
語気は荒いけれど言ってることは優しくて、先輩が気にしてくれてたと思うと、もう迂闊に近づこうとしたり話しかけたりしないという決心が絆されそうになった。
「ごめんなさい、明日からは、もう普通に過ごしますから、もう俺に関わらんでください」
これ以上追い詰められたらきっとダサくて気持ち悪い自分が溢れ出して止まらなくなるから。会釈して階段を降りる。
「角野くん、止まって。止まりまっし!部長命令や」
「すみません、嫌です」
「なあ、俺何かした?何が嫌やったん?ごめん、ほんとにわからん…嫌や、こんな曖昧に、今までの時間、全部なかったことになるん」
俺の後ろを追いかけてきてくれる一色先輩から逃げるようにして階段を降り続ける。
「違うんです、ごめんなさい、俺が悪いんです、ごめんなさい」
一色先輩が俺の腕を掴んだのを、反射的に振り払った。
「やめてください、ほんと、汚いんで!」
汚い俺に触ったところから、一色先輩まで汚れていくんじゃないかと怖くなって叫んだ。
一色先輩は一瞬目を見開いて、取ってつけたような下手くそな笑顔を浮かべた。
「今のは流石に、傷つくよ?」
「ごめんなさい、ほんとに、ごめんなさい!」
全速力で俺は階段を駆け降りて、玄関口まで走った。下駄箱の前で後ろを振り返った。先輩はもう、追いかけてきてはいなかった。
最悪だ。一色先輩を傷つけてしまった。こんなことなら最初から、楽器を吹くことも、話すことも、息をすることもできなければ良かったのかもしれない。
靴を履き替えて、校門を出ようとしたところで電話がかかってきた。先輩だったらどうしよう、と思って画面を見ると深町からの着信で、何か忘れ物でもしたかと少し考える。
「もしもし、深町?」
「突然やけど、このあと暇?」
いつも通りの深町の能天気な声色に少し安心した。
「このあと?暇やけど…」
「良かった。予定ないんやったらうち泊まりに来いや」
「は?今日?深町の家に?何で?嫌やわ」
予定はないけれど、今はとても友達と楽しく過ごせるような気分じゃない。
「嫌なわけないやろ。逃がさんからな、お前。今どこにおる?」
「嫌なわけないって何なん、横暴すぎるやろ。今は校門のところやけど、もう帰るんや、俺」
「校門のところな。ちなみに俺は、お前のすぐ後ろやよ」
振り向くと、トロンボーンのケースを背負った深町が、十メートルほど向こうから、スマホを片手に「何泣いとるん、あほ」と歯を見せて笑った。

ファミレスで適当に安くて美味しいドリアを食べてから深町の家に向かった。
「相変わらずせっまいなぁ、お前ん家」
「おい、はっきり言うんやめろや」
深町のお母さんはシングルマザーで、深町の家ははっきり言ってかなり貧乏だ。深町本人はといえば、日曜日やテスト前、年末年始など部活のない日はバイトに精を出し、バイト代のほとんどを家に入れているらしい。暇さえあれば激安古着屋をチャリで回って少し前のトレンドを取り入れ、千円カットにもめったに行けないので伸びきった髪型を安いワックスでうまく整えて、あとは持ち前の整った顔と愛嬌で、女の子にモテる男前キャラをなんとか維持している。
深町の家は、一階は居間、二階は寝室を兼ねた和室があって、遊びに行くと大体和室でダラダラと雑談したり、徹夜で俺のプラモデルを組み立てたり、自作のボードゲームを考案したりして過ごしていた。二階に上がって荷物と楽器を置くと、「友達が来たらエアコン使っていいって言われとるから、来てくれると助かるわ」と深町が嬉しそうにエアコンをつけて、さらに部屋の二台の扇風機を両方「強」にして自分に向けた。ひょっとして、普段はこの馬鹿みたいに暑い時期でもあの二台の扇風機だけで生活しているのだろうか。
「深町の弟は?」
「弟は友達の家に泊まりに行ってもらったし、お母さんは夜勤やから、誰も帰って来んよ。好きにくつろぎまっし」
「マジ?なんか弟くんに悪いことしたな。」
「いいっていいって。アイツ、最悪公園のベンチでも寝られるから。」
「嘘やろ…俺、今からでも帰るよ?」
「冗談冗談。」
真剣に言ったのに、深町が俺を指さして、可笑しそうに笑った。
深町が大事そうに楽器ケースを開ける。トロンボーンは新品同様の輝きを放っている。深町は中学のときから個人的にトロンボーン教室に通ってはいたけれど、使う楽器は学校の備品のものを借りていたと言う。今使っている自分の楽器は高校の合格祝いに親戚に買ってもらったものらしく、思い入れも人一倍強いようだ。
「俺、映画好きやんか。」
深町が楽器にスライドオイルを差しながら言う。
「やから、中学のときは、映画音楽が吹きたくて吹奏楽部入ったんよ。でも、部員に女子が多いと、どうしても選ぶ曲もJーPOPのメドレーとかが多くなるやん。で、桜川のコンクールの自由曲が毎年映画音楽っていうの知って、絶対入りたいと思ってん。」
吹奏楽部は運動部並にスパルタだとよく言われるけれど、少なくともうちの学校の吹奏楽部員はなんだかんだ文化系で大人しい人が多い。言われてみれば深町のようないかにも運動部のようなやつが、どうして吹奏楽部に入ったのか聞いたのは初めてだった。
「やから、今めちゃくちゃ幸せや。」
深町は珍しく真剣な顔でそう言って、軽くマウスピースで音出しして、本体につけてチューナーを使わずに大体の感覚でチューニングした。
「有名な映画音楽吹くから、タイトル当ててえや。」
「お、いいやん。」
深町が楽器を構える。無駄に背が高い分、腕が長くてトロンボーン奏者の風格がある。
深町が「行くよー」と言って吹き始める。深町の音は迷いがない。思い切りが良くて、頭の中がカラッと晴れていく。挑発的とも言えるほど大胆不敵で、格好つけてて、かっこいい。痺れる。
「はいはい!『バック・トゥ・ザ・フューチャー』。」
「はっや。早いわ、お前。まだイントロやんけ。もうちょい吹かせろや」
「いやー、流石にぬるいわ、ナメとるん?」
深町がタオルで口元を拭きながら、「もう一問!泣きの一問」と楽しそうに駄々をこねる。
「じゃあ、これ当てたら俺に百万円な」
俺が言うと深町が無責任に「オッケー」と答えて楽器を構えた。
今度は、さっきよりも陽気でのんびりした音色だ。大袈裟な強弱やアクセントは、譜面をなぞるだけではなくて、自由に音とじゃれあっているように感じられる。『スタンド・バイ・ミー』だ。すぐにわかったけれど、答えたら深町が演奏をやめてしまうのかと思うと、言えなかった。しばらくこのまま聞いていたいと思った。深町は俺がわからなかったと思ったらしく、「おっ」という顔をしながら吹き続ける。
そういえば、『スタンド・バイ・ミー』を見た時は、小学生のとき、風邪で学校を休んだ日に母親が近所のTSUTAYAでレンタルしてきてくれたんやったなぁ、とふと思い出した。どうして、学校を休んだ日の、部屋に差し込んでくる昼間の太陽に照らされると、あんなに罪悪感に駆られるのだろう。そのえも言われぬ背徳感が好きだった。時計を見ながら、今頃みんな体育しとるんやろうな、とか考えるのが楽しかった。
「わからんかった?」
「エモいなあ、って思って、何にも言えんかった」
俺が言うと、深町が少し首を傾げた。
「エモい?まあ確かにエモい映画やね、あれは。」
俺は不思議そうな深町の顔を見て、柔らかく微笑んだ。
「なー、映画見ようや。」
深町が楽器を置いて、勝手にテレビをつけた。
「映画?何見たいん?」
「『雨に唄えば』。」

有名なアメリカのミュージカル映画だ。初めはスマホ片手に見ていたその映画に少しずつ没頭していく。歌とダンスの世界に溶け込んで、自分の存在自体が空気と混じって消えた。

映画が終わって、タイトル画面に切り替わった。テレビを消してしばらく無言でスマホを眺めていた深町が、「この映画見ると、一色先輩思い出すんよ」とぽつりとつぶやいた。
「えっ、お前もそう思う?一色先輩の音って、雨みたいやよね?」
「いや、一色先輩の演奏は雨の匂いがするって言ってきたのお前やん。」
深町がニヤニヤしながら言った。
「あれ、そうやった…?」
「忘れたん?お前が俺にそう熱弁した次の日ぐらいにこの映画見たせいで、俺の中で『雨に唄えば』といえば一色先輩やわ。」
そういえば、そんなことを言ったかもしれない。深町も深町で、よくそんなことを覚えているものだ。
「角野、一色先輩の話になるとムキになるもんな。」
「はあ?ムキになんかなってないわ。」
「ほら、なっとるやん。」
深町が俺の顔をひょいと覗き込んだ。
「惚れとるんやろ。」
うわー、変なこと言うな、と言い返そうとして、できなかった。そんな風に恋心をぞんざいに扱うのは、心が可哀想だと思った。
「…気持ち悪いやろ、俺。」
「なんで?いいやんいいやん。このご時世、愛の形はなんでもありやろー。」
「ありがとう。でも、俺は気持ち悪いと思っとるんよ、同性愛がじゃなくて…嫉妬とか独占欲とか、俺の烏滸がましい感情が、ほんと気持ち悪い。一色先輩見てると、どうしたら俺のものになるんやろ、とか、ずるいことばっか考えてる。」
深町はきっと何を言っても馬鹿にしたりしないだろうと思って、心の奥底で燻っていた思いを吐き出した。
「田仲先輩と音合わせしてるの聞いとったら、二人と俺とは住む世界が違うんや、って思い知って。しかも俺にも教えてくれなかったことを田仲先輩に話してて、嫉妬で気ぃ狂いそうになってん。」
小さな芽だった憧れの感情は、いつの間にか成長してどす黒い赤の蕾になって、細い茎にはアンバランスなほど大きな、お世辞にも綺麗とは言えない花を咲かせていた。
「ちなみに、教えてくれなかったことって何なん?」
「一色先輩が貯金しとって、それを何に使うか、みたいな話。」
海外行かれるらしいんよ、と勝手に話すのは気が引けるので、そう言った。深町がふうんと机に頬杖をつく。
「もうこれ以上一色先輩と一緒におったら、狡い自分も汚い自分もすぐにバレて、同じ教室に二人でいるだけで、一色先輩まで汚くなるんやないか、って思って。」
傍から見れば恐らく随分馬鹿なことを言っている気がする。それでも深町は真剣な顔で聞いてくれている。
「一色先輩にはもう関わらんって決めたんやけど、それですれ違って嫌われて、最悪や。なあ深町、俺どうしたらいい?」
溜まりに溜まった言葉をひとつ残らず全部吐き出すと、すっきりするのと同時に、言葉にすればするほど自分はどこまでも利己的で、悲しくなった。
「練習終わったあと、階段のあたりでなんか喧嘩しとったもんな。」
深町が腕を組んで言った。
「えっ、聞いとったん?」
「お前らがでかい声で言い合いしとるからやろ。坂下がめっちゃ不安そうにしとったわ、一色先輩ってあんな大声出されるんですねって」
坂ちゃんはトロンボーンの一年生なので、深町の直属の後輩である。
「でも、嫌われとらんと思うけどな。」
そう言って深町が、ふと優しく微笑んだ。
「ちゃんと謝って、素直に言えば分かってくれるやろ。そういう人やん、一色先輩って。多分。」
「そういうのやないんよ、嫌なんやもん、喋るのも」
「あー、もう、いじっかしいなぁ。はっきりさせておきたいんやけど、好きなんやろ?一色先輩のこと。」
言葉を濁すことも黙ってやり過ごすのも許さない、とでも言うかのごとく、深町は俺をじっと見た。
「……好きや。」
「嫌われとらんかったら、仲直りしたいんやろ?」
「仲直りしたい。」
「ほんまは、一緒にいたいんやろ。」
「一緒にいたい。」
「って、彼言ってますけど、一色先輩!」
深町が不意にやかましい声で言った。
「……え?」
ぽかんとしている俺に、深町がスマホを突きつけた。
「嫌いになっとらんよ、俺。」
耳に心地よい穏やかな声が深町のスマホから聞こえた。画面に出ている「一色」の文字を見て目を丸くする俺を見て、深町が机を叩いて爆笑している。
「えっ?一色先輩?深町、通話、しとったん…?嘘やん、いつから…?」
「映画終わったあたりから。ごめんな、角野。」
自分の発言を思い返して、ぶわっと顔に熱が集まった。
「あ、あの…すみません、先輩、これはあの、嘘なんです、全部…」
「嬉しかったよ、角野くんの本音が聞けて。」
一色先輩がくつくつと笑うのが聞こえた。
「マジで、覚えとけや、深町…」
「怖あ。赤髪の怨念、怖すぎるやろ。」
「角野くん。角野くんから話聞き出してって徹に頼んだの俺なんよ。許してや。」
「えっ。」
深町を見ると、深町は「そうやよ。」と頷いた。
「合奏のあと自主練しようとしとったら、一色先輩に、角野に避けられとるけど理由がわからんから、角野のあと追っかけて聞き出してって言われたんよ。」
「じゃあ、急に映画音楽吹き始めたり、『雨に唄えば』見たりしたのも?」
「角野に口割らせるチャンスを窺っとった。」
深町が当然のように言う。一色先輩のスパイか何かなんか、コイツは。
「なんでそんな、回りくどいことするん」
「一色先輩に、どうしても電話越しにお前の声聞かせたかったんよ。一色先輩の話しとるときの角野、むちゃくちゃ面白いから。熱がこもりすぎとって。」
「そうなん?角野くん。」
一色先輩が面白そうに言う。俺はもう何も言い返せなくなって、
「意地悪!二人とも意地悪や!嫌い!」
と叫んで、畳に転がった。
「角野くん、明日も部活来てや。いつもの教室で、待っとるよ。」
一色先輩は柔らかい声で笑って、そう言った。

合奏中、何回も一色先輩の顔を盗み見た。思い返せば、一色先輩が聞いているとは知らずかなりはっきり告白してしまったような気がする。気恥ずかしくて、第一声なんと言おうかと考えながら人気のない校舎の階段を上がっていると、フルートの音色が聴こえてきた。
「……雨に唄えば」
昨日見た映画のワンシーン、夜明け前の雨の中、主人公が歌いながら踊り歩くシーンはあまりにも有名である。いつものどこか哀しそうな一色先輩の音色ではない。何か良いことがあったに違いないと思わせるような、朗らかで鼻歌でも歌うような音に導かれ、校舎の三階の隅の空き教室の前で立ち止まる。伸びやかで、軽快さも持ち合わせた、なめらかな雨の空気感を感じる。ひんやりと涼しい夜のザーザー降りの雨か。それとも早朝の、自分しか起きていないのではないかと思うような時間の暖かな雨だろうか。
少しだけ空いたドアの隙間から覗いた。窓を開け、窓枠に腰掛けている一色先輩は、自分の音に聞き惚れているようなどこかうっとりした顔でフルートを吹いている。なんだかドキドキした。
最後まで吹き終わって、一色先輩がこちらを見た。
「気づいとるよ、流石に。」
俺は少し緊張して、教室に入った。一色先輩は、フルートを置いて、目の前に置いてあった五百円貯金をしている缶を手に取った。
「これ、何に使うか、ずっと角野くんに言っとらんかったもんな。それを簡単に田仲ちゃんに言ったの、嫌やったんやろ。」
「…すみません。」
俺は後ろめたくなってうつむいた。一色先輩が、ふふ、と微かに笑うのが聞こえた。
「半分嘘やよ、あれ。」
「えっ。」
思わず顔を上げると、一色先輩が、
「ま、半分はほんとやけど。田仲ちゃんって、教えんって言うたら、余計に教えて教えてって言ってくるタイプやん。わかるやろ?」
俺が困って曖昧に頷くと一色先輩は「いや、悪口やないからね。」と微笑んだ。
「田仲ちゃんはなぁ、腐れ縁なんよ。ずっとクラス同じで、部活も同じで。でも悪い奴やないから。あ、こういうのが嫌?」
「…ちょっとだけ。」
「やったら、いいこと教えてあげようか?俺もやきもち焼いとるよ、角野くんと徹が仲いいのとか」
「え?それって…」
余計な言葉を飲み込んだ。顔が火照って、体が熱くなる。なんだか、嬉しい、より、いじらしい、という気持ちが上回って愛おしかった。
俺が楽器ケースを置いて椅子に座ると、一色先輩が缶をしばらく眺めて、「なんでお金貯めとったんか、ほんとのこと知りたい?」と俺に訊ねた。
「知りたいです、けど…先輩は、いいんですか」
「内緒な。」
一色先輩が人差し指を自分の唇に当てた。その仕草はひどく妖艶に見えた。
「卒業したら、性転換、しようと思っとってん。海外で」
開いた窓の外から、コオロギとカエルの鳴く声が聞こえた。
「せいてんかん、って、性転換手術…ですか?」
「そう。」
一色先輩が含み笑いしながら頷いた。あまりにも想像の外の言葉に、何を言うべきかわからず、暫く沈黙が続いた。静かな教室に、中庭の木がザワザワと揺れる音だけが聞こえていた。
「どうしてですか…?」
思わず口に出してから、すごく失礼なことを言ってしまったと気づく。
「体も女になりたいから。」
静かな声で一色先輩が答えた。
心は女の子なんですか、とか、いつからですか、恋愛対象は、とか、全部失礼にあたる質問な気がして、俺は一色先輩の長い睫毛を無言で見つめていた。すると、不意に一色先輩が顔を上げた。
「つまらんかもやけど、重い話、ちょっとだけしてもいいけ?」
俺はキュッと口を結んで、頷いた。

一色先輩は、目を伏せてゆっくりぽつぽつと話してくれた。違和感をはっきり認識したのは中学生の模擬テストのときだと先輩は言った。
「最初に、男か女に丸つけるやんか。あれっ、どっちや、ってふと思って。いや男やろ、っていう自分と、もしかして女やないか、っていう自分、両方おったんよ。いや、でも今まで男のつもりで生きてきたんやから、男に丸つけるしかないやんか。」
それをきっかけに、そういえば男子更衣室で着替えるのがなんとなく嫌だったり、母親の買っている女性誌や化粧道具をこっそり眺めるのが好きだったりすることに気がついたと言う。先輩は、今まで好きになったのは男性だけで、バイセクシャル、という言葉はテレビで芸能人がカミングアウトしているのを見て知り、自分もそうなのだろうと思っていた、と語った。
「性自認が女性で恋愛対象が男なのは、中学生のとき初めて気づいてん。体は男やけど心は女、っていう人たくさんおるやんか。俺もそうやって生きていこうって思っとったんやけど…やっぱり体も女の人になりたくって」
一色先輩がそこで漸く俺と視線を合わせて、少し困ったような笑顔を見せた。一色先輩がそこまで苦悩しているなんて知らなかった。そして今、胸の内に秘めていた思いを俺にぶつけてくれたことに戸惑いながらも、先輩の本当の顔を知れたようで嬉しかった。
「びっくりしたやろ。引いた?」
自嘲するように言った先輩に、俺はきっぱり言った。
「びっくりしましたけど、引いてません。」
先輩は、微かに瞳に安心したような色を見せて、そっか、と口角を上げた。
「手術って、むちゃくちゃお金かかるんやないですか?」
「そうなんよ。何百万とか必要。でも、五百円貯金ってコツコツ貯めてれば数十万とか貯まるって聞いて、それで突然思いつきで始めてん。」
一色先輩が缶を両手で持って横に振り、ジャラジャラ音を立てる。
「無粋な質問かもしれませんけど、どうして手術しようと思ったんですか。さっき、やっぱり体も女の人になりたかった、って仰ってましたけど」
一色先輩が、少し考える素振りを見せて、口を開いた。
「完全に女として、愛されたいんよ。」
それなら、と言いかけて、躊躇う。迷惑がられるかもしれない。告白して断られたら、気まずくなって、距離を置かれるかもしれない。本気なのをわかってもらえないかもしれない。それでも、言うべきだと思った。
「それなら、俺が愛します、一色先輩のこと。」
「お、気持ちはありがたいけど、でもほら、言い方悪いけど、今まで俺が精神的には女やって知らんかったやんか。気ぃ遣わんでいいって。」
「俺は、女の子しか好きになったことありません。その上で、今まで好きやと思った女の子の誰よりも先輩が一番可愛らしくて、綺麗やと思います。」
先輩は、少し困った顔で、でもどこか嬉しそうに、「ありがとう。お世辞でも嬉しい。」と微笑んだ。
「お世辞やないですから。女性として、一色先輩のことずっと愛します。俺が、先輩を幸せにしたいです。」
「……」
いつもの優しい笑顔を浮かべていた一色先輩は、張りつめていた糸がぷつんと切れたように表情を崩して、情けない顔をして目に涙を浮かべた。
「ほんとに?」
「ほんとです。」
「俺、スカートも履きたいし、メイクもしたいけど、笑わん?」
「絶対、似合います」
「結構重いし、寂しがり屋やし、構ってちゃんやけど、いいの?」
「嫌なわけないやないですか。可愛い」
俺が立ち上がって先輩の隣へ行こうとすると、先輩が駆け寄ってきて、棒立ちになっていた俺に体を預けた。恐る恐るそっと腕を回すと、同じぐらいの背丈のはずの先輩が、やけに小さく頼りなく思えた。首筋から微かに甘い香りがする。よく考えたら、先輩と一緒にいるときによく鼻先をかすめる香水の良い香りは、明らかに女物の香水の香りだった。
「ありがとう。俺も、好きや」
一色先輩が小さな涙声でつぶやいた。

どれほどの時間そうしていただろうか。
ひとしきり泣いて落ち着いた先輩は、突然恥ずかしくなったらしく、「ありがとう、もういいから。」と離れていって、また窓枠に座って外を眺めている。性別なんて関係ない、貴方が好きなんです、なんてベタなことは言いたくなかったけれど、夜を眺める先輩の横顔は性別を超越した神秘的な美しさに満ちていると思った。
俺は俺で小恥ずかしくなって、真面目にコンクール曲の練習を始めていた。
「角野くん。」
一色先輩がふと振り向いた。
「そういえば俺、角野くんの演奏、改めて聞いたことなかったやん。一部だけ聞いてアドバイスするとかはあるけど。角野くんが自信ある曲を、お客さんとして聞きたいわ。」
すぐに、はい、と答えた。今までは、一方的に聞くだけだったのに。やっと先輩は立ち止まって、俺が追いつくのを待っていてくれて、一緒に歩き出すことを許されたような気がした。
譜面の入ったファイルをめくって、何を吹こうか考える。ホルンが際立つ有名な吹奏楽曲か、それとも、定期公演で吹いたJーPOPか。
そうや、と思いついて譜面を閉じた。定期公演で吹いたあの曲を最後に吹いたのは半年ほど前だけれど、恐らくまだ完璧に暗譜している。軽く音出しして、チューニングのズレがないことを確かめて、タオルで口元とマウスピースをぬぐった。
「じゃあ、吹きますね。」
小さなマウスピースに口をつけた。
息を吹き込むと、ホルンの柔らかく穏やかな音色が教室に響いた。大好きな映画の冒頭で使われている曲、『September』。サックスやトランペット、トロンボーンのようにジャズ的で鋭くはないけれど、俺なりにホルンの音色を活かして吹く。思い切りドラマチックに、思い切り強弱をつけて、ブレスさえ音楽に変えてやる。
ラストのソロの直前で先輩に目配せすると、先輩が待ってましたとばかりにニヤリと笑って楽器を構え、即興でソロを吹き始めた。俺はベースラインを吹きながら、一色先輩の顔を盗み見た。暑い夏の夜の空気にミルクを注いで、マドラーでかき混ぜたような演奏だった。お客さんとして聞きたい、なんて言いつつやっぱりフルートを吹いているときの先輩が一番輝いている。結局この人には一生追いつけないのだと思った。
ホルンとフルートで『September』なんて、正直全然ブラックミュージックっぽくない。でも、俺達はその瞬間、間違いなく最強だった。


空港で待っていると、キャリーバッグを引きながら一色先輩が遠くから手を振っていた。
「ただいま。」
駆け寄ってきた先輩は、照れくさそうに笑った。
「おかえりなさい。」
真っ白なワンピース越しに胸の膨らみがわかる。これが先輩の本当の姿なのだと思った。先輩の、肩まで伸ばしたサラサラの黒髪がふわりと揺れる。
「超、綺麗です。」
「大丈夫?変やない?」
「どこのモデルさんかと思いました。」
「ダウト。言い過ぎは良くない。」
あれから数年経って、先輩は音大を卒業して、有名なオーケストラに入ってプロのフルート奏者になった。
そして、悩みに悩んで、リスクも考慮した上で性転換手術をすることを決めたと話してくれた。
「体大丈夫ですか、どこか痛くないですか?」
「それがな、手術直後は信じられないぐらい痛かってん。ほんっとに痛かった。今は、結構大丈夫。」
そんな心配そうな顔せんといてや、と先輩が笑った。
「タイ料理も美味しいんやけど、やっぱり日本食が一番やね。」
先輩は、俺の手を引いて、黒髪をなびかせ、少しヒールのある靴で歩き始める。
『星に願いを』を口ずさみながら。

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