半月

俺は、この田舎町にとらわれて、出られない。

俺は、二年前に大学を卒業して、地元に帰ってきて母校の小さな中学校で国語と社会の教師をしている。全校生徒は八人。学校までは実家から歩いて二十分だ。あぜ道を通って河川敷に出て、左にずっとまっすぐ行けば、木造の古びた校舎がある。そこが、第一中学校である。俺が子供だった頃は第二中学校が少し歩いたところにあったのだが、何年か前に生徒数の少なさを理由に第一中学校に合併されたらしい。
父さんは俺が大学生のときに持病をこじらせて亡くなった。大学にも二時間かけて実家から通っていたので、ひとりっ子の俺は母との二人暮らしを余儀なくされた。
母さんは、昔から一人息子の俺をとても可愛がってくれていた。よくショッピングセンターに連れて行ってもらった。冬はスキーやそりすべりをしに山へ足を運んだ。桜の季節になれば河川敷で花見をした。今でも、帰りが遅くなった日はもう寝ているが、夕食は欠かさず作ってくれている。ありがたい限りである。

俺がリビングでテレビを見ていると、母さんが「ひろ」と俺に声をかけた。
「ひろが私に気を遣ってくれているのは、お母さんもわかってるし、嬉しく思ってるのよ。でもね、それよりも、本当にひろにやりたいことがあるなら、それをしてほしいわ。それがこの町じゃできないことでも、お母さんは応援するわよ。」
母さんはこたつで編み物をしながら横顔で微笑んでそう言った。だから俺は答える。
「別に母さんに気を遣ってここで教師をしているわけじゃないよ。俺がやりたくてやってるだけ。」
俺がそう言うと母さんは微かに笑った。くすんだ水色の毛糸を編み上げる手は軽快に動き続けている。
「そういえば、坂口さんとこの仁美ちゃん、春からこっちに帰ってくるらしいわよ」
俺は飲んでいた緑茶を吹き出しかけて、なんとかこらえた。
「仁美が?帰省じゃなくて、こっちに住むって?」
「そう。駄菓子屋さん、継ぐらしくて」
仁美は中学生のときの同級生だ。凛とした立ち姿、半ば強引で率直な話し方、その全てに憧れていた。中学校を卒業してから県で一番頭のいい高校に進んだ仁美と、一番家から近くの高校に進んだ俺は自ずと疎遠になって、ふと思い出したように時々メールが来るぐらいで、卒業式以来一度も会わず仕舞いだった。
「でも、東京で就職したって…」
「都会の空気に馴染めなかったのかしらねえ」
母さんはそう答えながら毛糸を編む。マフラーを編んでいるらしい。もう春だけれど、豪雪地帯であるここでは、まだマフラーがないと肌寒い。
「そのマフラー、俺にくれるつもり?」
「これは仁美ちゃんへのプレゼント用よ」
「仁美のか…」
キリッとした美人の仁美にこの水色はきっとよく似合うだろう。
「じゃあ、それ完成したら俺が仁美のとこ持っていくよ。」
「そう?じゃあ、よろしくね。」
窓の外には夜が広がっていて、しとしとと雨が降っている。

あぜ道を通って川沿いの道に出て、右にずっとまっすぐ行けば、小さな無人駅がある。電車は一時間に一度、一両編成のおもちゃのような電車がガタンゴトンと音をたててゆっくり進んでいくのが見える。その駅のすぐ近くに仁美の実家の駄菓子屋はあった。翌日、雨上がりの匂いのする道を、片手にお菓子と手編みのマフラーが入った紙袋を引っ提げて歩く。雲ひとつない晴天である。古ぼけた「まねきや」という看板をくぐって店の中に入ると、色とりどりの駄菓子の世界に放り込まれたような感覚が全身を駆け巡る。最後にここに来たのは中学の卒業式の日だった。セピア色の思い出に色がついて脳内に映像が浮かんでくる。小学生のときは、お小遣いの500円玉が入った真っ赤ながま口を首から提げてここを訪れては、目を輝かせて駄菓子を選んだものだ。
「いらっしゃい、って、ひろくん?」
「……仁美。久しぶり」
奥の座敷から姿を現したのは、俺の記憶にある、長い黒髪を無造作に後ろで束ねた三白眼の女の子ではなくて、肩までの茶色い髪をふわっとなびかせて薄く化粧をした大人の女性だったけれど、確かに仁美だった。
「ほんと、久しぶりだね。私のことなんて忘れてるんじゃないかって思ってた。」
仁美はそう言って八重歯を覗かせて笑った。胸が締め付けられそうなほどにあの頃と同じ笑顔だ。
「これ、母さんが仁美にって。」
「おばさんが?気を遣わせちゃって申し訳ないなあ、ありがとう。よろしく伝えておいて」
仁美は一度奥の座敷から家の中に入って行ってから、裾が膝より下にある長いコートを羽織り、黒の高そうなショルダーバッグを片手に持って、母さんが編んだマフラーを首に巻いて現れた。
「ごめんね、お待たせ。せっかくだし、散歩しようよ」
「でも、仁美、店番は」
「おばあちゃんに頼んできたから、平気だよ」
外に出ると、こっちはやっぱり寒いね、と言いながら仁美が俺の隣に並んだ。中学を卒業したときは俺よりも背が高かったはずの仁美は、ハイヒールを履いているのに俺よりもずいぶん背が低い。
「それ、カラコン?」
俺は歩きながら前を向いたまま言った。
「ああ、わかる?でも、結構ナチュラルなやつだよ」
「しないほうがいいよ、それ。髪も、黒の方が似合ってたし」
自分でも驚くほど無愛想な声が出た。しまった、と思ったけれど一度言ったことは取り消せず、ヒヤリとしながら横目で仁美を見ると、仁美は一瞬押し黙って、「ひろくんは昔と変わらないね」と呑気な声で言った。
「ひろくん、先生やってるんでしょ。最近どうなの?」
「生徒は少ないけど先生も少ないから結構大変。でも、毎日充実してるよ」
「やっぱり生徒少ないんだ。私達のときも生徒と先生みんなで家族みたいな感じだったもんね」
冷たい風が吹いて、仁美は、寒いなぁと言ってコートのポケットに両手を入れた。俺はさりげなく仁美の手を握らなかったことを少し後悔した。
「仁美はさ、なんでまねきや継ぐことにしたの」
仁美は小学生の頃から、高校を卒業したら東京でOLになるのが夢だとよく言っていた。そして、本当にその夢を叶えたとメールで聞いていたのに。
「まあ、心境の変化、かなあ」
仁美はそう言って少し微笑んだ。勤務先で人間関係のトラブルでもあったのだろうか。仁美に限ってそんなことがあるだろうか。それともブラック企業というやつだったのだろうか。気になったが、自分から語ろうとしないのに聞くのは下世話だと思い、俺は「へぇ」とだけ言った。
「それにしても、この辺はなんにも変わらなくて落ち着くなあ、帰ってきたって感じがする。東京はね、家もすぐ建て替わるし、お店もすぐにできては潰れてまたできて、景色がどんどん変わっていっちゃうんだよ」
仁美は空を見上げて、独り言のように言った。
「この道、よくさくらと三人で雪遊びしながら帰ったよね」「仁美」
俺は思わず仁美の次の言葉を止めようとした。仁美が空から俺に視線を移して、「ねえひろくん、LINEでも、今日も、さくらの話題避けてたでしょ」と言った。図星だった。俺は黙った。仁美も黙った。名前も知らない鳥の鳴き声だけがあたりに響く。沈黙を破ったのは俺だった。
「さくらに、挨拶しに行く?」

駅のホームの柱の一本に、ビニールテープを巻きつけてあり、花が何本か刺さっている。ここが、さくらの自殺した場所だった。こんな田舎で、一時間に一度しか電車が来ないこの駅で、飛び込み自殺。俺たちが中学一年生になったばかりの春の終わりだった。
「この花、ひろくんがいつも持ってきてるの?」
「うん。なんだか、一度持ってきたら、やめにくくて」
仁美は頷いて、花に向かって手を合わせた。俺も同じように手を合わせた。人はおらず、電車が来る気配もなかった。二人でベンチに座る。田んぼが地平線まで続いて、さらに遠くに山が見える。
「さくら、花好きだったよね」
「うん。花の名前いっぱい知ってた。あと、俺んちの犬、俺よりさくらに懐いてた」
「うちに遊びに来たらいつもココアシガレット買ってたね」
「さくら、高校卒業したら東京行きたいってよく言ってたな」
「……」
「……」


俺たち三人は、物心ついたときからずっと一緒に育ってきて、今日中学生になった。入学式は体育館で全校生徒で行われる。背の高い仁美はセーラー服のスカートを少し折って短くしてすらりと着こなしている。小柄なさくらはスカートが膝より長い。落ち着かないのかきょろきょろ辺りを見回したり自分の三つ編みをいじったりしている。
「さくら、落ち着いて。先輩もみんな小学校が一緒だった人ばかりじゃない。」
「そうだけど、新しい先生とか、怖いし…」
「怖い先生のお説教なんて、ぜーんぶ私が言い返してやるから。それに、頼りないけどひろくんもいるし。」
仁美は式が始まるまで、さくらの手をぎゅっと握っていた。
式が終わって、校庭に出て解散になった。俺たち三人は、帰り道にある河川敷を歩いていた。
「あのさ。仁美、ひろくん、写真撮ってもいい?」
さくらがデジタルカメラを片手に俺と仁美に言った。
「ああ、三人で?いいよ。うちの母さんに撮ってもらおうか」
俺がカメラを受け取って、談笑している母さんたちのところへ行こうとすると、さくらが「そうじゃなくて」と俺を止めた。
「仁美もひろくんも、中学の制服似合ってるから、二人の写真を残しておきたいなって」
仁美は「さくらも可愛いよ。あとで撮ってあげる」と笑った。俺は、母さんがこれから身長が伸びることを見越して買ったダボダボの学ランを着ていて、お世辞にも似合っているなんて言えないような格好だった。
「そこの桜のところがいいな。こっち向いて、笑って」
俺と仁美は大きな桜の樹の下で横に並んでカメラの方を向いた。
「はい、チーズ」
ぱしゃり、とシャッターが切られた。撮れた?見せて、と仁美が駆け寄る。俺もその後ろからカメラの画面を覗きこんだ。画面の中の、少し口角を上げて微笑んでいる仁美はひどく綺麗で、その隣で俺は緊張した面持ちでこちらを見ていた。

「仁美ー」
仁美のお母さんが仁美を呼ぶ声が聞こえた。
「ごめん、お母さんのとこ言ってくる。じゃあ、また明日ね」
仁美がそう言って母さんたちのところへ走って行った。
俺とさくらはしばらく無言で桜を見上げていた。さくらの長いスカートが風になびいて揺れていた。
「桜、綺麗だな」
俺がそう言うと、さくらは微かに頷いて、「屍体が埋まってるのかもね」と妙にはっきりとした口調で言った。
「え?」
「梶井基次郎。知らない?」
さくらは俺を見て、にっこりと笑った。
「桜は、根から死を吸い上げて咲いてるんだよ」
「小説?」
「そう。素敵でしょ」
風が吹いては、桜が目の前で散っていく。さくらの顔は逆光でよく見えなかった。
「桜は、根から死を吸い上げて咲いてる」
俺が言うと、さくらは声を上げて笑った。
「どうして笑うんだよ」
「ひろくんもそうでしょう?」
ひやり、と骨の髄まで冷えていく心地がする。俺は「どういう、意味だよ」とようやく口にした。
「私の死を吸い上げて生きているんでしょう?」
いつのまにか俺は大人になっていた。周りには桜並木のある河川敷の景色が広がっていて、大人の姿の俺と中学生のさくらしかいなかった。
「さくら、ごめん、さくら」
「みんな、誰かの死を吸い上げて生きてるんだよ。見て、ここにある樹の下には一つ一つ屍体が埋まってる。だからこんなに美しく咲いてるの。そう思わない?」
「さくら、自殺を止められなくてごめん」
「本当に悪いと思ってる?」
「俺が悪かった、さくら、頼むからもう許してくれ!」
さくらが優しく微笑んだ。
「だったらずっとここにいて。」
春の強い風が吹く。足元に根が生えたように動けなかった。俺は一本の桜の樹になっていた。


踏切の音で目が覚めた。目を開けると俺は駅のホームのベンチで横になっていて、横を電車が走っていった。隣のベンチには仁美が座っていて、ビー玉の入ったラムネを飲んでいた。
「あ、起きた。実はうちからラムネ持ってきてたんだけど、飲む?」
ありがとう、とラムネを受け取って、ぐっと蓋を押し込んでラムネを開ける。
「俺、どうしたんだっけ」
「急に寝ちゃったからびっくりしたよ。マイペースなところ、昔と同じだね」
俺は、照れ隠しに少し顔を背けて、ごめんと謝った。
「随分うなされてたけど、悪い夢見てた?」
「なんだかよく覚えていないんだけど、昔の夢を見ていた気がする」
久しぶりに仁美に会ったからだろうか。いや、昔からよく見る夢だったような気もする。
そろそろ行こうか、とラムネを片手に仁美が立ち上がる。俺たちは駅をあとにした。

母校でもあり俺の勤務先でもある第一中学校へ行きたいと仁美が言い出して、河川敷を歩いて俺たちは学校へ向かった。昨夜雨が降ったにも関わらず、河川敷の桜並木は美しく咲き乱れていた。仁美が足を止めた。
「さくらが歓迎してくれてるのかなあ」
仁美が桜の樹を見上げて、そう言って俺を振り返った。
「中学の入学式の日、ここでさくらが私とひろくんの写真撮ってくれたの覚えてる?」
「ああ、そんなこともあったなあ」
あのときの写真は後日さくらがプリントして渡してくれたような気がするが、どこへやってしまったんだったか。
「私、実はあのときひろくんのこと好きだったから。さくらが気を利かせてツーショット撮ってくれたんだと思う」
俺は目を見開いて仁美を見た。仁美ははにかんだように笑った。八重歯がちらっと見えた。俺は考えるより先に仁美の腕を引いた。
「仁美、俺も仁美のこと好きだったよ」
仁美が俺を見た。仁美の目に映る俺はすがりつくような目をしていた。
「それに、俺今でも仁美のこと」「ひろくん!」
仁美は大声で俺の声を遮った。強い風が吹いて桜の花びらが舞い散った。
「ひろくん、ごめん、聞いて」
強気で冷静な仁美がここまで感情的になるのを見るのは初めてだった。
「私が仕事を辞めてこっちに戻ってきたのはね、心境の変化なんかじゃなくて、どうしてもさくらのことを思い出しちゃうからなんだ。さくらの分まで東京で頑張ろうと思って東京で就職した。でも、さくらも生きてたらこうやって東京で働いてたのかな、一番近くにいた私が自殺を止められてたら、って思えば思うほどつらくて、さくらはこの町から出られないのに私だけが東京に出てきて、本当にいいのかなって。」
「それは俺もだよ。さくらを死なせてしまった罪悪感で、あの学校で働き続けてる。」
「やっぱり、ひろくんもそうなんだ。私たち、似た者同士だね」
仁美のくすんだ水色のマフラーが風になびいている。俺はただ立ち尽くしていた。
「ここに帰ってきたら、この町はあの頃から時が止まってるみたいに何も変わってなくて、何も変わってないひろくんに会ったら、なんだか変わっちゃった自分が恥ずかしくなった。バカみたいだよね。」
仁美は今まで溜め込んでいた思いを吐き出すように言いながら、泣いていた。俺は必死で言葉を探して、ようやく言葉を発した。
「俺はさ…昔と変わった仁美を見て、怖かったんだ。茶髪も、ハイヒールも、化粧もよく似合ってて、仁美は昔の仁美じゃなくなったんだと思って。」
仁美は軽く頷いた。
「変わるのは怖い。俺は、中学生のときの、さくらが死んだあの日から、一歩も前に進めてないよ」
「それは、私だって同じだよ。やっぱりここに戻ってきちゃった」
俺は泣いている仁美を抱きしめることもできない意気地なしだった。仁美が桜の樹を見上げた。
「遺書にも書いてなかった。さくらは、どうして自殺したの?」
桜の樹がザワザワと揺れて、とても俺たちを歓迎しているとは思えなかった。俺と仁美が幸せになることは決して許されないのだと漠然と思った。俺と仁美はいつまでも桜の樹を見上げていた。

俺たちは、この田舎町にとらわれて、出られない。
頭上には抜けるような青空が広がっていて、傾いた白い半月が浮かんでいた。




※梶井基次郎『桜の樹の下には』二次創作

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