思えばサル山が好きなガキだった

幼稚園のとき、遠足で動物園に行ったことを覚えている。

その翌日、幼稚園で「昨日見たどうぶつさんの絵を描いてみましょう」と先生が言った。
友達がゾウやキリン、カバの絵を描く中、幼稚園児だった私はサル山の絵を描いた。サルではなく、サル山。山に登るたくさんのサルの絵だった。
絵は全員分が壁に貼りだされた。私がそれをひとりで眺めていると、先生が「遠足の絵は毎年描いてもらってるけど、サル山の絵を描いたのは今まででとじるちゃんだけだよ」と言った。

今思い返せば、その頃から人間や人間に近いサルを観察するのが好きだったのだと思う。
つい最近まで私は、自分が人に興味が無い人間だと思っていた。

例えば、彼氏が新しい服を買ってデートに着てきてくれても、ほぼ100%私は気づかない。友達未満の人の、インスタに載せるディズニーの写真に興味が無い。きっと私は、他人に興味が無い人間なのだろう、すごく長いことそう思っていた。

でも違う。私は、人のスマホケースが好きだ。大人しそうな人のピンクのスマホケースが、クールぶってる人のヒョウ柄のスマホケースが好きだ。
私はTwitterが好きだ。寝起き五秒のツイートが、酔っ払った日のセンチメンタルなツイートが好きだ。いいねなんて気にしない人のツイートが好きだ。

いいねが欲しくて仕方ないようなツイートはあんまり好きじゃない。フォロワーを求めて書かれたフィルマークスの感想は嫌いだ。
インスタのリア垢は、写真も感情も加工されていることが多い。加工されたものに魂は宿らないと思う。

それに比べてTwitterはむき出しの人が多い。私はフォローしていないけどたまに見ている人が何人かいる。それは大体すごく嫌いかすごく好きなツイートをする人のどちらかだ。嫌いな人は理想の自分をSNSに映し出すことに命をかけていて、好きな人は自分の思ったことや趣味の話を、少しユーモアを加えて延々数時間ごとにツイートし続けている、ことが多い。

私は大嫌いな人を観察するのも、大好きな人を観察するのも、結局はどちらも好きなのだろう。観察すること自体が大好きなのだと思う。それはもう気持ちが悪い位。趣味が人間観察という中二病のレベルではなく、一種の病気なのかもしれない。

でも、私は彼ら彼女らと対面して話してみたい、自分で話を聞き出してみたいという気持ちは一切ない。フォロワーになりたいだとか、ましてや友達になりたいだなんて思わない。私は、彼らの部屋の壁に、床に、天井に、通学路のカーブミラーに、通勤電車のつり革になりたい。生活を垣間見たい。できることなら、頭の中まで覗き見たい。

私は映画を見ることが苦手だ。今、苦手を克服しようとしている。でも人生とかいう、映画よりはるかにクソつまらないはずの作品のワンシーンを見ることはすごく好きだ。起承転結なんてない、8ページ目から50ページ目までの「承」しかないような。私の人生なんてまさに「承承承承承」の連続だ。勉強して、早起きして、50ページ目まで進んだかと思ったら、また8ページ目まで戻る。

でも、他人に興味が無い部分があることも確かだ。中学時代、私は嫌いな人がいなくて、クラス全員と友達だった。逆にすごく仲がいい人はひとりしかいなかったし、その子とは今は全く連絡をとっていない。良くも悪くも好き嫌いの感情があまりないのだと思う。と言うよりは、ほぼ全員のことが結構好きだ。ネット上であんまり好きじゃないあの人とかあの人も、会えばたぶん普通に好きになっちゃうと思う。

「距離感がめっちゃ近いか他人かしかない」と言われたことがあるけれど、その通りだ。
私の好きなYouTuber、おませちゃんブラザーズに、わるい本田さんという人がいる。「他人に全然興味無さそうなのになんかファンのストーリーとかツイートとかやたら見てる」というタイプで、他人との距離感が私と似ているのでは無いかと勝手に思っている。

そういえば、さっき書いた「距離感がめっちゃ……」と言ってきた友達は、初めて話したとき「前からとじるのTwitter見てて、話してみたいと思ってた」と言っていた。
私は思う。むき出しのTwitterを続けて、誰かが私のTwitterを訪れた時に少し良いなと思ってくれれば、それほど嬉しいことはないと。

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