Silence

大学へ向かう途中、突然肩を叩かれて私が振り返ると、小柄な眼鏡の女性が無言で私を見つめていました。
戸惑いながら私は彼女を見ました。白銀にも見える明るい金髪とは裏腹に、眼鏡の奥の無愛想な瞳は黒々としています。彼女は自分の両耳を指さしてから、胸の前で両腕を交差させ×を作って首を振りました。
私はしばらく考えて、ああ、耳が聞こえないのですねと言いました。彼女は私の言ったことを口の動きで理解したらしく、軽くうなずきました。そして、か細い声で口から漏れた、でんち、えき、みちという言葉が宙に浮かんで消えました。
どうやらスマートフォンの電池が切れ、駅までの道がわからないらしく、私は駅までの道順をジェスチャーで伝えようかと少し考えてから、諦めて彼女に手招きしました。案内しますよ、と言うと口の動きで理解したようで、彼女は少し目を伏せて軽く頭を下げました。
彼女は私の横に並びました。自分より随分下にある肩を見て私は少し眉を寄せました。小動物のような可愛らしさの奥に得体の知れない仄暗い何かを抱えているように思えました。不自然なほど美しい横顔を横目で見ていると無言のまま駅に着きました。彼女が少し微笑んで頭を下げます。そのまま立ち去ろうとするのを、あの、と思わず引き留めようとして、すでに背を向けている彼女には聞こえないのだと気づいて、彼女の腕を軽く引きました。振り返った彼女が、まるで不思議なものでも見るかのように訝しげに私を見ました。
私は慌てて言葉を探して、わけがわからないままに好きですと口にしました。
そして、そこで初めて、自分が彼女に一目惚れしたのだと自覚しました。

彼女は時間をかけて、私が彼女に本気で惚れていて交際を前提に仲良くなりたいことを理解し、少し困ったような顔で了承してくれました。会話は主にメッセージアプリでやり取りするようになりました。
彼女の名前は倉橋悠乃といい、私より二歳年下で、今は聴覚障害者も通える大学へ通っているのだと言います。そのため大学へのアクセスの良い北関東の某県で一人暮らしをしていて、実家が東京にあるため時折都内へ足を運ぶのだと話してくれました。メッセージ上の悠乃さんはよく喋り、よく冗談を言いました。
時々、二人で会っては無言で買い物をしたり遊園地に行ったりして、表情やジェスチャーでコミュニケーションを図りました。会っているときでも伝えたいことがあるときは頻繁にメッセージアプリを使いましたが、悠乃さんは短い言葉なら口の動きを読んで理解できる上に、単語ならなんとか発することもできるのだといいます。

夏には悠乃さんが音楽フェスに行きたいと言い出して、それは危ないですよ、と私が止めるのも聞かず、聞こえない音楽を楽しみました。秋は旅行に行って昼間は観光を楽しんで、夜は温泉宿に泊まりました。部屋の窓から月を眺めながら私がRADWIMPSのセプテンバーさんを歌ったら、悠乃さんもめちゃくちゃなメロディで歌いました。大晦日には、こたつで字幕付きでテレビを見ていたら、いつのまにか年が明けていて、それに気づいた悠乃さんがぺこりとお辞儀をしたので私もつられてお辞儀をすると、可笑しかったのか悠乃さんが腹を抱えて笑いました。私も笑いました。それが初笑いでした。
悠乃さんの耳が聞こえないことで不便だったことも、数え切れないほどありました。それでも私たちは幸せで、満足していました。

出会って一年の記念日をしっかり覚えていた私は、悠乃さんを焼き鳥屋に呼び出しました。悠乃さんからは、記念日に焼き鳥ですか、という文句のメッセージが来ていました。
焼き鳥で腹を満たしたところで、悠乃さんがせっかくだからケーキでも買って食べようと言い出して、ケーキ屋で二切れケーキを買って私の家に向かいました。私の一人暮らしのアパートに到着して、部屋に入って落ち着いたところで、おもむろに私はプレゼントの箱を取り出しました。なんですかこれ、と言いたげな顔で悠乃さんが箱を受け取ります。私に促されて悠乃さんが箱を開けました。
メリーゴーランドの形をしたオルゴールが姿を現しました。金色の馬が三頭、照明の光を反射して輝いています。悠乃さんが私を睨みつけました。悠乃さんはすぐにスマホを出してメッセージを送ってきました。ブラックジョークがすぎますよ、冗談でも笑えません。私はそれを見て慌てて、メッセージを返します。本当に綺麗な音だから、どうしても聞いて欲しかったんですよ、悠乃さんに。
悠乃さんが顔を上げました。私は見てろと言いたげにオルゴールのネジを巻きます。指を離した瞬間、イッツアスモールワールドが流れ出しました。悠乃さんが私を見ました。私は、綺麗でしょう、と言って得意げに笑いました。
悠乃さんが、きれい、と真顔でつぶやきました。私はしばらくオルゴールを眺め、音楽がゆっくりになって、そして止まったところで再びネジを巻こうとオルゴールを手に取り、巻き終わったところで悠乃さんをちらと見ると、悠乃さんが静かに涙を流しているのに気がつきました。悠乃さんも感動して泣くことがあるのだなと思っていると、悠乃さんがスマホを手に取ってメッセージを送信しました。

「感動して泣いているのではなくて」
「貴方と同じものを聞いて、同じように心を動かされることは一生ないのだと今わかってしまって」
「それがどうしようもなく悲しいのです」

スマホを下ろした悠乃さんは嗚咽をあげて泣きました。今すぐにでも叫び出してしまいそうな、必死な顔をしていました。
私はそれを抱き寄せて、背中を叩きながらぼろぼろと泣きました。部屋にはイッツアスモールワールドが流れていました。

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