赤福とひいおばあちゃん

山口県のド田舎に、私のひいおばあちゃんが住んでいた。家の周りは、見渡す限り畑と山があった。古くて広い家だった。猫が住み着いていた。

私は二回だけ会ったことがあった。いずれも小学生のときだったような気がする。記憶が曖昧なので、矛盾点があるかもしれない。それと、山口の方言がよくわからないので、雰囲気方言を使わせていただくが、目を瞑って欲しい。

近所に誰も住んでいないので、窓もドアも全開だった。家の中によく大きな虫がいて、親戚はみんなそれを全く気にしていなかった。

ひいおばあちゃんは物忘れが酷い。すぐに私に「あんた、名前なんやったっけ」と尋ねる。恐らく、私がひ孫だということも分かっていないと思う。それでも自分の世話をしている大叔父さんたちの名前はわかっていたし、あまりボケてはいなかったらしい。

ひいおばあちゃんは、いつもミカンを食べていた。ひいおばあちゃんの机には、いつもミカンの山と、ミカンの皮の山があった。それを、小さな口で、もちゃもちゃと食べる。そして、食べ終わったら、入れ歯をカポッと外す。

ひいおばあちゃんは昔、ピアノの先生だったらしい。持て余すほどに広い家には、ピアノがあった。私は幼い頃からピアノを習っていたので、少し弾かせてもらった。といっても、小学生のときなので大した曲は弾けない。
ひいおばあちゃんは私のピアノを聞いて言った。「まあまあやなぁ」
そして、「あんた、名前なんやったっけ」と言うのである。

親戚の人と会ったのは、従兄弟や祖父母を除けばその二回だけだ。そこにいたのは、祖父のお兄さん、つまり大叔父さんふたりだったような気がする。東大とか、早稲田大とかを出ている人だったと思う。

客間で、赤福を食べながら談笑した。「今は金沢に住んでるん?」「金沢って言うとあれか、百万石まつりがあるんやな」親戚の集まりの気まずさを経験したのは後にも先にもそれだけである。その気まずさがスパイスになったのか、そのとき食べた赤福はやたらめったら美味しくて、私は小学生の特権とばかりに沢山食べさせてもらった。

そのあと、家を勝手に探検してきて良いと言われたので、うろうろしていたら、屋根の上に出られた。屋根の上は確か平たくなっていたので、へりに座った。遠くの山まで見渡せた。ひいおばあちゃんは山をふたつ持っていると聞いたけれど、どれとどれなんだろう、と考えた。風が心地よく、天気のいい日だった。田舎の空気は美味しい。喧騒のない世界は、どこまでも続く気がする。

部屋に戻ると、皆が庭にいるようだったので、庭に行くと、大きな鳥がいた。
「キジやなぁ」と大叔父さんが言った。キジと聞いて、初めに思い浮かべたのは桃太郎だった。「ここはキジがよく来るんよ」
野生のキジが当然のように庭にいるのは不思議な感覚だった。しばらく待ってもキジはすました顔でそこにいたので、皆ぞろぞろと部屋に戻った。

一泊して、次の日の朝、私と母と弟は車でひいおばあちゃんの家から広島にある祖母の家に帰ろうとすると、猫が車にひかれて倒れているのを見つけた。ひいおばあちゃんの家に住み着いている猫だ。でも、まだ生きてる。母が猫を道路脇に移動させ、祖父に連絡して、すぐに助けに来てもらえるように伝えた。急いでいたので私達は先に帰った。

あとから「猫は助かった?」と尋ねたら、「助かったみたいよ、たぶん」と母は答えた。それが大人の優しい嘘なのだということは、なんとなくわかっていた。

それから二年後、ひいおばあちゃんは亡くなった。103歳の大往生だった。最後まで認知症にもならず、自分の足で歩いていたらしい。
母は、「とじるはひいおばあちゃんに顔が似ているね」とよく言う。

私は時々、ミカンの皮を剥くひいおばあちゃんの指と、赤福の味を思い出す。

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