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そこそこを目指す 悪手について3

私は初心者には将棋ソフトによる検討を勧めない。好手を見たくなるからだ。将棋の上達には自分の悪手を見るステップが大事で、いきなりソフトの「正解」を見ても応用が利かないと思っている。この違いを理解して、自制できるならソフト検討も有効に活用できるだろう。

物事には順番がある。たとえば、自分はオシャレに興味がない。私服はとにかく安くて機能的で着心地がよいものを求めて、一度買ったら着られる限り着続ける。そういう私に高度な最新トレンドについてガッーっとまくしたてられても、ちんぷんかんぷんだろうし、10万のジャケットは身の丈に合わないだろう。最低限の清潔感だけ気にして生きている。
ちょっとたとえ失敗しているかもしれないが、まあ、将棋についてもまずは低いレベルで満足して、清潔な服装を整えられるようになってから、よりレベルの高いオシャレをしたいならするべきだといいたいわけだ。

悪手を見るってことは、自分の指す将棋をかたどる悪手をただ知ることをいっている。素晴らしい好手を目指すのではない。自分の悪手を見て、なんで気づけなかったのかなーとか内省して、それで終わりでいい。ソフト検討だといまの自分では到底たどり着けない好手も出てくるだろうが、心の隅にでも置いておいて、それより、知っているはずなのにできなかったことを反省しよう。そういう手もあるはずだし、なかったら、勝ち負けは別にしていい将棋させたと自信を持っていい。いまの自分にできることをきちんと遂行できたのだ。

知らない難しいことができないのは仕方ない。我々が目指すのはそこそこでいい。


チェスでも同じ構造があって、私がチェスをはじめてしばらくは「気づいたら駒取られてた」が多発していた。これはまずいと、慣れるまではとにかくただ取りにだけ気をつけて、「うまく両取りかけられたら成功」くらいに開き直って指していた。

シンプルな課題に集中して取り組んでいれば、1週間もすれば結果が出る。見落としはガクンと減って負けられるようになり、それから次に両取りのパターンについて考えを進めていった。見落としで駒を取られないようになると脱初心者といっていいだろう。
将棋のほうが駒の利きが弱いので、ただで駒を取られる罪は重く、より初心者向けの課題になる。


ここまでで前提となる精神論はいったんけりをつけて、次からは具体的な話をしていきたい。自分の棋譜と、81道場の級位者から棋譜をこっそり取ってきて、自分ならどう改善しようと考えるか、とにかくやってみることにする。

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