それはひとつの「色」
私は白が好きだ。
けれど昔から服を選ぶとき白を選ぶとまず言われる言葉は
「汚れが目立つから違う色にしたら?」
そう、私はすぐに服を汚してしまう。
醤油やケチャップ、キムチにカレー、コーヒーなどなど
うっかりこぼしてしまったり
知らないうちにはねていたり
子供に「気をつけなさい」なんて言えない
まず私自身が「気をつけよ」なのだ
…いや、気をつけてはいるのだけれど。
いつしか大人になるにつれ私のなかで「白」は汚れが目立つ色というイメージがすっかり定着してしまったのだった。
「白」という言葉には汚れ・穢れのないという意味が含まれている。
特に日本においてはこの「けがれのない」ということに価値を置かれる傾向が強いように感じる。
無垢であること、清潔であること、潔白であること・・・
一つ一つの言葉だけみれば望ましい・好ましい状態のことばかりのようにも思える。
白色はとても好きな色の一つだ。
心の持ち様を表す時、私自身そうでありたいとも思っている。
けれどその分、他の色にはない緊張感を感じさせる色だということもまた事実なのだ。
色でいう「白」が光源がピタリとその一点に合わさった点の色のことだとするならば、「白」は「白い」ことしか許されない。
他の色はグラデーションが許されているのに、白だけは違う。
純白という言葉があるように、「白」に他の色が混ざった途端、それはもう「白」からはみだしてしまうのだ。
そしてほんの少しでもずれたらそれは「白」ではないとする風潮はこのところとても強くなっているように思う。
白の上に置かれた他の色はとても目立つ。
違和感として、はっきりと。
また純度の高い「白」は周りの「色」を飛ばして見えなくさせてしまう。
正論や正しさが時として狂気を生むように
穢れのなさを求めるあまりに人々が他人を許せない世の中に傾いてしまっているのではないかと不安になる。
時として、とても厳格なものになってしまう
他を寄せ付けないほどの白は
その強さゆえに人を傷付けてしまうことがあることを忘れてはいけないように思う。
絵の具の白には他の色を柔らかく、明るく変える力がある。
こんな色は他にはないと思う。
これからどんな色にも染まることができる
これからどんな線も描くことができる
そのための白であってほしいと願う。
影響力の強い色というのはこんなふうに使われてほしい。
そんなふうに伸びやかであってほしい。
白は他の色があればこそ、の白なのだ。
白という「色」もただの「色」なのだ。