それは大人の責任を伴う
顔とは実に様々なことを教えてくれる。
その人の体調や気分、複数集まればその場の持つ雰囲気、流れる空気感、置かれた立場まで。
人はいくつもの顔を持っている。
大人ほどではないにせよ、子供も多かれ少なかれいくつかの顔を使い分けている。
対面、という言葉があるように
そもそも顔とは向かい合う面の数だけあるものなのかも知れない。
鏡に映る自分の顔をまじまじと見つめる。
今私が周りに見せている顔は、どんな顔をしているだろうか。
最近子供が見せる顔についてよく考える。
楽しそうな顔、怒っている顔、嬉しそうな顔、不満そうな顔
それらの表情はあまり心配しない。
怒っている顔や不満そうな顔とはこちらも同じ顔でぶつかることもしばしばある。
今私が気になっているのは
寂しそうな笑顔と、我慢している顔、何も読み取らせない顔だ。
子供ってこんな顔をするんだ、とドキリとする。
子供の習い事に付き添っていると、必然的に色々な子供に接するが、ふとした時に見せる表情が気になる子供に出会うことがある。
とても苦しそうと言うのか、困っているというのか何ともいえない顔だ。
声をかけると本人的には何事もなかったかのように、何となく力無く笑って答えてくれるのがまたこちらの心配に輪をかける。
子供達は大人が思っている以上に、周囲の顔色を伺っているのだと思う。
誰が自分に対してどのような顔で接してくるのかを、毎回注意深く伺っているのだ。
そして、他の人にはどのような顔で接しているのかも。
そして自分も顔を使い分けることを覚えていくのだろう。
私は決して立派な大人ではない。
本来の私は自己中心的な人間だと自負しているから。
好きなことには寝食を忘れて没頭していたいし、自分に都合の良いことだけを信じていたい。
面倒なことは極力避けて通りたい。
それでも子供を持ち、母親という顔を持つようになって十数年ようやく大人としての顔にも慣れてきた。
子供たちの顔色を察知することにも、少しづつだけれど、敏感になってきたと思う。
だからこそ今の自分が家で、外で見せる顔がどのように見えるのか時々不安になるのだ。
今の私は、子供を含めまわりの人にとって寛いだ顔を見せられる大人だろうか。
くだらないことを笑い合えそうな、顔をしているだろうか。
人生も折り返しを迎える世代の大人として
自分の顔に責任を持って生きることは最低限の矜持なのだ、と改めて胸に刻んだ。
鏡に映った自分の顔を見つめる。
さあ
今の私はどんな顔をしているだろうか。