例の応募作の原文(第4部のつもり④)

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 ついさっき再会したばかりだという小笠原君と平澤君を椅子に座らせ、さっそく質問責めにしてやろうか、というところではあった。しかし懐かしい顔が一度にふたつも揃ったものだから、どこからどう攻めていけばいいのか、まるで見当がつかない。当然ながらふたりそれぞれの話をじっくり聞きたいし、こちらだって近況報告をしなければいけない、話したいことは山ほどある。おまけに再会の嬉しさもあり、すっかりわけが分からなくなってしまった。
 お茶を持ってきた父に「ご無沙汰しています」と頭を下げた平澤君が、まず話し始めた。
「知ってるか? こいつ、すっかり浅草の有名人になっちゃってるんだ」
「有名人? どういうことだよ」
 武村さんが浅草の画家から聞かされた「おかしな絵描き」の噂、その主はやはり小笠原君だった。その噂は平澤君が暮らす深川にまで広まっていて、旧友に違いないと考えた彼は雷門周辺を歩き回り、その絵描きがどこにいるのかを街の人から聞き出した。ようやく小笠原君の姿を見つけた時、彼は学生服姿の生意気そうな少年にからかわれて、かんかんに怒っているところだったという。
「なんていえばいいのかな、こいつを久しぶりに見た時、何がなんだか分からないぐらい嬉しくなっちゃってさ。やっぱり絵を描いてるのも嬉しかったし、いつももごもご言うだけで自分の考えなんて言えないような奴だったのに、自分をからかう奴を『うるさい』って怒鳴りつけてるんだもん」
「ま、喧嘩してたのはよくないけどな」
「うん。ああいうところを見られたのは恥ずかしかったけど、俺も発ちゃんに久々に会えて嬉しかったし、すごくびっくりしたよ。いろいろ、びっくりした」
「いろいろびっくり、って何が?」
「まず、昔よりもうんとやせた」
「誠ちゃんも、人のこと言えないよ」
「それから、いきなり抱きついたんだよ。俺をからかった学生と、そいつの仲間とか野次馬みたいなのがいたんだけど、そういうのをかき分けて『小笠原だろ! お前、元気そうじゃないか』って。げらげら笑いながら、涙をぼろぼろ流してさ」
「それはちょっと、びっくりするなあ」
「それで、学生が『仲間も変わり者か。類は友を呼ぶ、だな』って捨て台詞を吐いて、どこかに行っちゃったんだけど」
 頬を赤らめて「それだけ嬉しかった、ってことだろうが」とうつむいた平澤君だったが、小笠原君が「びっくりした」と繰り返すのも無理はない、と感じた。なんといえばいいか分からないが、目の前に座る彼自身が「彼らしくない何か」をまとってここに現れた、ような気がしてしまう。小笠原君との再会の場面を語っただけで目をうるませていた平澤君だが、たしかに涙もろい面はあったものの、嬉しい話であれば嬉々ききとして語るというのが彼本来の姿だったはずだ。
 だが、いつもお喋りの中心にいたかつての彼にちょっとだけ戻り、再会してからの顛末てんまつを聞かせてくれた。
 まず平澤君は、「国防」の挿絵画家としての小笠原君しか知らなかったから、それ以降の彼のかたについていろいろ聞かせてもらったという。時局画展入選のこともついさっき知ったばかりだ、と笑った。
「それで、小塚の馬鹿に丸めこまれた時の小笠原の気持ちっていうのを、俺はとにかく知りたかったんだけどさ」
「それはみんな興味があるよ。その辺の話、発ちゃんは聞いたのか?」
「いいよ、俺が話すよ。
 あの頃は俺、人物画の授業で七転八倒しちてんばっとうみたいな思いをしてて、やめようかどうしようか迷ってたから。小塚が救いの神に見えたんだ、『こいつ、意外といい奴だなあ』って」
「馬鹿だなあ。みんな言ってたんだよ、『人物画が苦手なら先生に教えをえばいいじゃないか、あんな奴に丸めこまれるほど思いつめてたのか』って」
「うん。あの頃は本当に思いつめてた。元々ちょっと馬鹿だけど、あの頃は馬鹿に磨きがかかってた。
 それで『国防』で描けって話になって、その後はもうあれよあれよ、で。俺みたいなのが、いつの間にか看板画家ってことになっちゃった。
 編集部だって軍の息がかかった奴ばっかりでさ。俺はやめようとして、何度も談判だんぱんしたんだよ。でもそのたびに『先生、先生』ってびへつらったり、『やめたら即出征だろうな』っておどしたり。もう、抜けるに抜けられなくて。
 でも俺は、機械を描くことが好きだから。『もう何も考えずに機械だけ描き続けよう、それだけなら楽しいから』って」
 その後、小笠原君は軍から時局画を描くよう命じられた。油絵は門外漢だと言っているのに馬鹿でかいキャンバスと何十色もの油絵具が用意された部屋に連れていかれ、軟禁状態であの大作「一閃」を描き上げたのだ。作品に向き合いながら叫びたくなるほどの激情に駆られるのが常だったが、そういう時は手拭てぬぐいを口に突っこんでうめき声を出してしのいだそうだ、部屋の外にはいつも番兵ばんぺいがいたから。
「『あんな絵、空襲で灰になったらどんなにすっきりするだろう』って思ったものだけど。軍の預かりになったんだよ、GHQが持っていくかもしれないけどね。
 それにしても、小塚みたいな奴に心を許したばっかりに、とんでもない思いをしちゃったよ」
「そういえば、あいつはどうしてるんだ?」
「ああ、あいつはね。うーん。
『少国民画報』は終戦まで続いてたじゃないか、でも最後のほうは、あいつの連載は見開き2ページがせいぜいだっただろう? ま、雑誌そのものが随分薄くなっちゃってたけどさ。
 俺が時局画を描いてた頃から、あいつのほうはネタ切れでにっちもさっちも・・・・・・・・いかなくなってたんだよ。それでも人気漫画家の座を失いたくないって本人も頑張ってたし、軍だって打ち切りなんて考えてなかったしさ。そのうち、軍の誰だか知らないけど、あいつに『これは戦地の兵隊さんも愛用しているものです』って、変なものを使わせて……」
「薬か?」
「うん。それに頼らなきゃどうしようもないぐらいになってたらしいよ。
 玉音放送が流れたと思ったらあいつ、雲隠れしたっていうけどさ。今頃『絵の仕事なんてこりごりだ』って思ってるんじゃないのか」
「もともと絵が好きだったわけじゃないんだし、才能だってなかったんだし。他の世界でおとなしく生きていけば、って感じね」
「それ以前にまともな判断力が残ってるかどうか、も気にかかるけど」
 最後は天敵の噂話になり、苦笑いとともにその話を終えたところで、平澤君が小笠原君に「お前、大畑にちゃんと頼んでみろ」と促した。
「なんの話だよ」
「うん。あのさ」
 小笠原君の家は、やはり3月の空襲で灰になってしまっていた。「国防」編集部も散りぢりになり、彼は母親の実家がある秩父ちちぶに身を寄せたが、終戦後しばらく経ってから帰京。自宅跡にバラックを建て、なにひとつ残っていない中で画家としての再出発をはかるべく浅草の街頭に出て米兵のジープなどを描いているうちに、意外な形で注目されることになってしまった。
 そしてつい先日、「国防」の編集部で世話になった人がバラックに訪ねてきた。例の版元はんもとなどとは縁が切れてせいせいした、というところだったからはじめは追い返そうとしたが、その若い編集者は他の大手出版社に転職し、念願の児童向け雑誌の編集部に在籍することになったという。あの版元とは切れているなら、ということで「新しいことをやるつもりだ」と意気込む彼の話を聞いてみた。
「なんでも『絵物語』っていう、今までにないジャンルの読み物を作るんだってさ。『雑誌の目玉にする』って、鼻息も荒いんだ。
 男の子向けで、冒険物語と挿絵で構成するんだけど、挿絵をとにかく大きく扱うそうなんだ。漫画ほどじゃないけど、例えば見開きページの右半分に大きな絵をどんと乗っけて、その上に題名をでかでかと書いてさ。左側は本文と小さい挿絵、とか。『文章と絵の二本柱になる、両方で楽しめるものにするんだ』って」
「なるほど。それは斬新だ、今までになかったね」
「それでさ。物語なんだから主人公は人間だろう、機械じゃないだろう?」
「そりゃそうだ」
「俺、『挿絵をやらないか』って誘われたんだけど。断っちゃったんだよ、『人間は描けないから』って」
「もったいないよ。君の才能を見込んで声をかけてくれたのに、それはない」
「ほら、武村さんもびっくりしちゃってるよ。いや武村さん、こいつも『なんで断っちゃったんだろう』って言ってるんですよ。
 小笠原、大畑に頭を下げろ。『人物画の勉強をさせてください』って」
「そうか。それで今日、来てくれたのか」
「そうだよ。俺も話を聞いて『よし、今すぐ神田に行こう』って。それで慌てて連れてきた、ってことだ」
 私にとって、絵を描くことそのものが「昔取った杵柄きねづか」といえるほどのものになっていることが、引っかからないわけでもなかった。でもこれを期に、私も久しぶりに絵に向き合ってみればいい。
 しかし、私はわざともったいぶって、こんなことを言ってみた。小笠原君はこれまでのことをいろいろ話してくれたがもうひとつ知りたいことがあった、話があまりにも盛りだくさんだったからすっかり忘れていたが。
「今年の正月明けの頃、神田に来ていただろう? それで泣いていただろう、そのあと俺と目が合って逃げていったじゃないか。泣いていた理由、その時に考えていたことを話してくれたら、教えてやってもいいよ」
「うん。それは、俺自身が一番話したかったことかもしれない。だからちゃんと人物画を勉強して、こんどはいいものを描きたい、って気持ちもあるんだ」
 彼はあの時、進駐軍に菓子をねだる子ども達を見て泣いていた。ついこの間までの自分の仕事は、彼らを不幸にすることだったのだ、と。ぼろを着た子ども達が「ギブ・ミー・チョコレート」と繰り返す光景は我々にとってすっかりおなじみになってしまっていたが、彼はそれを見るたびに条件反射的に自責の念と涙がこみ上げてきた、しばらくそんな状態が続いていたそうだ。
 加えて、(以前の我々の推測どおり)空襲の被害を免れた神田に行けば旧友たる私に会えるだろうと思って降り立ってみたが、芸校を中退した自分が進んだ道を考えれば、卒業生の私には顔向けできないような思いもあった。二の足を踏んでいるところで他でもない私の姿が目に入ったものだから、どうしていいか分からなくなって咄嗟とっさに逃げ出した、というところだったそうだ。
「君ひとりが子ども達を不幸にしたわけじゃないだろう。そんな思いにいつまでも縛られていたら、何もできないよ」
「そうですよね、武村さん。俺もそういうところから脱却したいんだな、って気づいてるんです。当時の失敗を取り戻すために、俺は今日、大畑君のところに来た。そんな気がします」
「お前のやってきたことなんて、失敗のうちに入らないよ。戦地に行った人間なんて失敗だらけだ、どうすりゃいいんだ、って話だよ」
 平澤君が言った。なんとも意味ありげな言い回しだったが、「なぜそんな言い方をするのか」と尋ねること、あるいは彼はじめ戦地から帰った人の経験を聞き出そうとすることについては「聞くだけ野暮やぼ」ということになるだろう。しかし彼のほうから、へんに勢いのある口調で語り出した。
「去年のうちに復員してはいたんだ、でも戦地の疲れがとれるまでは、昔なじみの連中とは会えないかなあ、と思って。女房とせがれがまだ山梨にいたから俺も合流して、しばらくのんびりしてたんだけどさ。それで春の彼岸が過ぎた頃に深川に戻って、俺も小笠原同様にバラックを建てたんだ。
 あ、おやじさんは助からなかったんだ、例の3月の空襲の時に『店を守る』って戻っちゃって、それっきりだ。だから乾物屋は廃業だよ、俺は品物の目利めききもできないうちに出征しちゃったんだもん。また一から仕切り直しだ。
 大黒柱の俺がしっかりしなきゃいけないんだけど、それにしても戦地の疲れってものはなかなかとれないもんだなあ。『ジャワは天国、ビルマは地獄、死んでも戻れぬニューギニア』っていうけどさ。そんな都々逸どどいつがあるかってんだ、畜生ちくしょうめ。
 でもそのニューギニアから、俺は戻ってきたんだ。それこそ、いろんな思いをして。
 まあ、そのうち、な。泣かずに思い出せるようになったら話してやるよ」
「もういいよ、やめてくれ」と怒鳴りつけそうになったところで、平澤君は話すのをやめ、静かに泣くだけになった。
 終戦から1年が過ぎ、我々も何人もの復員兵と接してきた。その中でいろいろ推測できるようになり、それこそ「聞くだけ野暮」という心境に至った。命の危険にさらされる日々が続くだけでなく、誰かが人の道を外れる瞬間を見る、あるいは自分自身がそうなってしまう。そんな世界から、彼らは帰ってきた。きっとそういうことだろう。
 彼がいう「戦地の疲れ」というのは、本当は疲れなどというものではなく、傷というべきものだろう。きっと我々が知りえない、いくらおもんぱかってもまだ足りないほどの大きな傷を負ったのだ。
 ただ平澤君は、私と小笠原君の橋渡しをするという形で、以前の彼と変わらぬ側面を見せてくれた。それが救いだ、としかいえないのがなんとも悲しいが、なんにせよ彼にとって一番の薬になるものを我々が提供できれば嬉しい、とも思う。その薬というのが、希望を持って前進しようとする友の姿なのかもしれないし、「泣かずに思い出せるようになったら」その話を聞いてやることなのかもしれない、あるいはただ涙を流すままにさせてやってもいいのかもしれない。
 何が一番いいのか、今のところは見当もつかないけれど。

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