例の応募作の原文(第5部のつもり②)

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 その日はとりあえず、小笠原君を引き留めて話を聞くなどということはしなかった。締切間際で時間がない人間をつかまえて自分の知りたいことを聞き出すなんて真似はできないし、そんな配慮をする以前に案の定、担当編集が来てしまった。
「もう勘弁してくださいよ。今夜じゅうに上がるんでしょうね!」と声をうわずらせる担当どのに連れられて帰っていく小笠原君の後ろ姿を見て「いやはや、大変だ」と同情してしまったのと同時に、彼自身の「戦争の後始末」は順調すぎるほど順調に進んでいるのだ、とあらためて実感した。
 
 その数日後。4月になり、年度もあらたまった。
 小笠原君は入稿後ひと息ついて、すぐに次号の準備に取りかかっているだろう。3本同時進行でやっているのだからこちらに顔を出す暇などないか、そもそも先日の私の頼みごとなど覚えてもいないかもしれない。そんな思案をしていると、彼が店にやって来た。彼の仕事のサイクルで考えれば珍しいことといえる、普段はこの店を締切間際まぎわの逃げ場所として使っているのだから。
「あのさ。今ね」
「うん。どうした?」
 私に例のことを語るために来たわけではない、小笠原君自身なにか私に伝えたいことがあってわざわざ顔を出した、ように思える。とりあえず、普段の彼とはなんだか様子が違う。
「申し込んできた」
「何を?」
「ほてい屋に行ってさ」
「ほてい屋に行って申し込んだ…… まさか!」
 そのまさか、だった。
 ここに来る前、ほてい屋でいつもどおり昼食をとり、閉店までねばってお客が引けてからアヤ子ちゃん本人とご両親に「お話がある」と声をかけ「アヤ子さんと、結婚を前提におつき合いさせてほしい」と頭を下げた。それで断られたらここになど来ていないだろう、本人は頬を赤らめて快諾かいだくし、女将さんは「向こうからきてくれた」とあけすけ・・・・に喜びの声をあげたという。
「こないだ、ああいう話をしたじゃないか。なんだか、すごく勇気がわいてきてさ。『もたもたしてたら、さらわれる』って大畑君も言ってたし」
「ああ。たしかに言ったなあ」
「それでさ、発ちゃんの交流術を学ぶまでもなく、自分なりにちゃんと気持ちを伝えよう、って」
「そうか。やったなあ」
 その時の様子を想像しようとするが、情景がなかなか浮かんでこない。これまでの彼とは(もちろんいい意味で)あまりにもかけ離れているから、だろう。その代わりに笑いがこみ上げてくるので困ってしまった、これはもちろん幸せな笑いだ。
「武村さんからスーツを仕立ててもらうのは予定どおりでいいだろう、プロポーズの時に着ればいいんだ」
「彼も忙しいけど」
「たしかにそうだけど、芸校在学中から自分でデザインしたジャケットなんか着ていたんだもん、朝飯前だろう。お願いする時に『手があいたら』って言わなきゃいけないけどな」
「うん。なんだか楽しみだな。……それともうひとつ、あの子のためのワンピースもお願いしたい。なんていうのは図々しいかな。
 知ってるか? 4時のラジオに今日、武村さんが出るんだ」
「そうだった。もう始まっちゃってるな」
 慌ててラジオをつけると、まさに武村さんが新雑誌創刊の予定について語っているところだった。
 彼と飯村君、「ぶらいと社」のほうもてんてこ舞いの忙しさだ。
「ぶらいと」の売り上げは天井知らずといってもいいほどに伸び続け、ちょっと上の世代をターゲットにした姉妹誌の創刊が前の号で告知されたばかりだ。その編集長を飯村君が務めることになったが、創刊準備だけやっていればいいという状況ではない。武村さんはいっぱし・・・・の文化人として新聞やラジオなどの媒体に引っぱりだこだから、飯村君は「ぶらいと」の編集長補佐どころか代行として諸々こなさなければいけない。そのうえ入社したての新人達を育てるという、社の将来がかかった大事な役割をになってもいる。
「若手には、なるべく早く仕事を覚えてもらわないとな。そうじゃないと、ふたりともまいっちゃうよ」
「そうだな。あの社屋ももう手狭てぜまになってきただろう、二間間口にけんまぐちの建物じゃ用事が足りないはずだ。となると、いつか移転、ってことになるだろうな」
「この辺にいてほしいなあ。遠くに移転したら、やっぱり寂しいよ」
「ま、移転するとしても会えないほど遠い場所に行ってしまうわけじゃないんだし、そもそも移転すると決まったわけじゃない。
 多忙なのは、ぶらいと社の発展のあかしといえるじゃないか。近くにいるのにこの店にあまり顔を出さなくなったのは寂しいけど、活躍しているからこそ、だ」
 などと偉そうに言ってしまったところで、私は小笠原君に「こないだの話のこと、覚えてるか?」とたずねてみた。「アヤ子ちゃんの話以外に、さ」
「なんだっけ」
「やっぱりな。『一閃』を描いてた当時の話をあらためて聞かせてほしい、ってやつだよ」
 あんな時代の記憶をほじくり返すのは億劫おっくうだ、と渋ってみせた小笠原君は私に「なんでそんな話を聞きたいの?」と訊ねた。私は、美術団体加入後から今までの、いってみれば「描く者」としての私自身の心の動きについて説明し、前に進むためにも「時局画とはなんだったのか」についてあらためて考えたいのだと述べた、「戦争の後始末」などという大仰おおぎょうな言葉を口に出すのは照れくさかったが。
「一閃」ではなくて「国防」のことを話そうか、あの頃は嫌なことだけでもなかったんだ、という小笠原君は、次にこう言った。「小塚に丸めこまれて『おかしなことになっちゃったなあ』って思ってたけど、心のどこかに嬉しさもあったんだ。自分の強みをかせるって小塚に言われたけど、『まさにそのとおりだ』と思えていたから」
 
 前に「あれよあれよと言ってるうちに、いつの間にか看板画家に仕立て上げられてた」って言っただろう? その「あれよあれよ」の間は、本当になんにも考えてなかった。その頃だけでいえば、正直いうと楽しくてどうしようもなかったんだよ。
 でもさ、「国防」がどういう雑誌なのか、どういう連中が作ってるのかなんて、嫌でも分かる時がくるじゃないか。そうなってきたらもう、「俺、何やってるんだろう」って。こんな奴らのために、大好きなこと――「機械を描くこと」の喜びを差し出さなきゃいけないのか、って。
 編集部の奴に直接そう言っちゃったことがあったんだよ、そしたら思いっきりぶん殴られた。俺がひっくり返ったら襟首えりくびつかんで椅子に座らせて「お国のために戦う者としての気概きがいを持て。いいから描け。いいから描け」って念仏みたいに繰り返してさ。あめむちっていうけど、鉄拳制裁担当とゴマすり担当がいたんだよな。
 やめるやめないの小競り合いなんて何回やったか分からないけど、「もう逃げられない」ってあきらめてからは「苦痛を感じずに描き続ける方法を見つけなきゃ」って思うようになったんだ。そうじゃないと、機械を描くことそのものまで嫌いになっちゃいそうだったから。
 そのうち、描かされる機械も「こんなもん、実際に造れるわけないだろ」って、素人でも疑問に思うようなものばかりになっていって。だとしても描かなきゃいけないだろ、それで俺、「これはシュールレアリスムみたいなものかな」って思うことにしたんだ。在学中に武村さんが「そういう路線に挑戦してみたら」って言ってくれてたっていうのを思い出して。
 荒唐無稽な機械を、芸術学校の日本画科を中退した俺が描いている。兵隊の顔には俺なりの変な癖が出て、なんともいえないおかしみ・・・・みたいなものが出てしまう。それも全部ひっくるめてシュールレアリスムだ、こんな変な顔の兵隊が変な兵器を操って「絶対に勝つぞ」とかやっている。これがシュールレアリスムじゃなかったらなんなんだよ、って。
「国防」の頃はいつもいつも「なんだこりゃ」って呟きながら描いてたんだ、生きてきた中で一番多く使った単語じゃないか、ってぐらいに。笑えてくるような涙がこぼれてくるような、変な感覚がずっと続いてた。
 ある時、嫌味半分のつもりで絶対に実現不可能な兵器の話をしてみたんだ、妄想の域を出ないような代物しろものだけど。そしたら編集者も馬鹿なんだよな、「いいですね。描いてみてください」って。それで、形だけはまともにしておいてあとは滅茶苦茶なやつを描いて入稿してみたんだ、ネジだって普段は1本も端折はしょらないように頑張って描いてるのをこっそり2本か3本描かずにおいたりさ。ところが、それが大うけになっちゃった。もう、描いている俺自身までシュールレアリスムの世界に取りこまれたような気がしたものだよ。
 もちろん、「楽しい」と手放しで言えるほどではなかったんだ。ただ、楽しいと思い込むことならなんとかできていた。一方で、そうやって描き続けている俺自身を冷静に見ているもうひとりの俺、みたいなのもいたけど。
 そうやって描いていた絵だけど、見る側はそんなのをに受けるか時代の愚かしさをしみじみ思うか、どっちかだろう? 大畑君は後者の気持ちで見ていたんだろう、そういう気持ちは俺自身にも残っていたんだよ。でも目をそむけておくしかなかった、そんなこと考えたら絶対描けなくなっちゃうから。
「一閃」の時は軍のちょっと偉い人と直接関わらなきゃいけなかったからもっと辛かったけど、まあ同じような感じでなんとか乗り切ってさ。それと「せっかく描くんだから、少しでもいいものにしなきゃ」って思いもあった。
 軍の奴にめられたいとかいう意図があったわけじゃないんだ。あんな大作を任されたんだもん、やっぱり「国防」とは違う気持ちに、いつの間にかなってたんだよな。軍の奴らにいらいらしたりテーマそのもので悩んだりしつつも、ただ「ひとつの作品に真正面から向き合う」っていう、絵描きとしての本来の姿勢がよみがえった感があったんだ。どんな絵を描く時でもそういう姿勢は失っちゃいけないもんな、なにを失ったとしても、さ。
 不思議なもんで、というか矛盾を感じるかもしれないけど。ものすごい葛藤がありつつも描けちゃったし、あれを見て評価してくれた人もいたんだし。
 頭では「こんな世の中」って怒りつつも、心のほうには芸術家が作品に向き合う時の、わくわくといってもいいような感情が、明らかにあった。それに引っぱられて走り続けてた、っていうことになるのかな。結果的に、それは「戦争をやりたがる連中に飼い慣らされてた」ってことになるんだけど。
 
 結局、軍の連中っていうのは絵描きの目と指先がほしかっただけなんだよな。自由と平和を愛する芸術家の心なんて興味がない、どころか不要、邪魔といってもいいほどのものだったんだ、きっと。
 だから芸術家の心というものははな・・から存在しないことにして「一国民としてその目と指先をお国に提供したい者、この指とーまれ」ってやってたんだよ、それは俺達が芸校に入学した昭和10年からだ。
 ほら、あの年に「帝展改組かいそ」っていうのがあったじゃないか。美術展という小さい世界だけど、そこに政治が首を突っこんできて帝展のトップが総入れ替えになっちゃった。俺達は入学したてで半径5メートルぐらいのことしか目に入らない、戦争なんて遠い世界で起きていることと思ってとにかく楽しくやってたから、さほど考えたこともなかったけど。
 でも美術界全体のことを考えれば、あの時に転機を迎えていたんだよ。戦争したくてたまらない奴らが、「まずは美術展をこっち・・・寄りにしようか」ってじわじわ攻め始めたんだ。その後、自分の世界を大事にしてたはずの画家連中が「我も我も」で志願して従軍画家だらけになっちゃったし(「これでようやく人の役に立てる」みたいな感覚があったのかもな。「絵を描くこと以外なにもできない」なんて後ろ指さされるのは悔しいじゃないか)、時局画展も大規模なやつがそこらじゅうで開催されるようになったし。
 昭和10年の時点で、戦争をやりたがる連中は絵描きを懐柔かいじゅうし利用する、そういう見えないおりみたいなものを造って俺達をどんどん追い込んでいたんだ。そういう檻に渋々入っていく奴もいれば喜んで入っていく奴もいた、小塚に誘われた時の俺みたいに檻にとらわれると気づかない者もいた。
 檻の中でボス猿をやってた大御所もいただろう、富士山の絵を何十枚も描いて売りさばいては、その金で飛行機を買って軍に献納したり。「軍の思うつぼだ」って歯噛みする画家もいれば、その大御所みたいに「持ちつ持たれつ」ってところに収まって悦に入る画家もいた。でも俺達は「勝手にしろ」とはいえない。ま、大畑君は「勝手にしろ」の姿勢を貫きとおした勇気ある画家、といえるけど。
 それにしてもさ、昭和10年っていえば日中戦争の頃だ。俺達はまだ二十歳はたちかそこらだよ。そんな昔から、戦争をやりたがる連中は世界を敵に回すつもりだったんだよな、本当に馬鹿みたいだ。アメリカと仲よくしておけばっていうこともできるけど、あの国もまた新たな戦争を仕掛けようとしているし、まあどっちもどっちだよな。
 
 今手がけてるのは空想科学小説(英語でいえばサイエンス・フィクションってやつだ)、そこに俺の挿絵をつけたものなんだよな。でも考えてみれば、戦中にやってた「国防」がまさに空想科学としかいえないような代物だっただろ? 当時の俺は予行演習をやっていた、今につながってきてるんだなあ、なんて思ったりもするんだよ。
 さっき大畑君は「戦争の後始末」って言ったけどさ。
 もし、あの子が賛成してくれたら、それ以前に俺のところに来てくれたら、の話だけど。
 俺、戦災孤児を引き取って育てたいなと思ってるんだよ、絵の好きな男の子がいいな。もちろん俺の血を引く子がいつか生まれるだろうけど分けへだてなく育てなきゃ、どっちにも絵の手ほどきをしてやるんだ、なんて空想したり。
 やっぱり、ああいう本に関わったことで誰かを不幸にすることに加担したんだ、って思いは捨てきれないよ。だから辛い思いをした子、ほんのひとりでしかないけど俺の元で育て上げたい、立派な大人になって巣立つところを見届けたい。ちょっと傲慢ごうまんかな。
 でも、それをやり遂げたら俺の「戦争の後始末」が終わるのかな。今、ふと思ったんだ。

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