例の応募作の原文(第4部のつもり⑨)

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 夕暮れ時の少し前、平澤君父子が散歩から帰ってきた。途中で小笠原君と行き会って、「ぼうけんブック」の連載の話なんかをしながらゆっくり歩いてきたという。
「さあ、小笠原のお兄さんが絵を描いたっていうお話だぞ。見てみようか」
平澤君は椅子に座って喜久雄君を膝に乗せ、「ぼうけんブック」を開いた。連載のタイトル「水底巨岩城」を音読し、その後は読み聞かせてやるつもりだったのだろうが、ざっと目を通した段階で固まってしまった。
 小笠原君の絵は主役といってもいいほどで、挿絵と呼ぶべきかどうか迷ってしまうほどの存在感を放っている。見開きページの右半分に陣取るタイトルの力強いレタリングと、迫力満点の絵に想像力を刺激された読者は物語の世界に引き込まれ、一気に読み進めていくはずだ。
「ああ、喜久雄君にはちょっと早いかもしれないな。小学校中学年以上の読者を想定してるから」
「いや、それもあるんだけどさ。いくらなんでも奇抜すぎる」
 それから文章そっちのけでページを繰り始めた平澤君だったが、明らかに動揺していた。そんな様子を見た私は笑いそうになってしまったし、小笠原君のほうは「どうだ」と言わんばかりだ、彼がこんな表情を見せることはめったにない。
「いや、本当に斬新だな。作家が作家なら画家も画家だよ、よくこんなのを思いついたな」
 小笠原君が「新しい時代の読み物だからな」と胸を張った新連載「水底巨岩城」のあらすじは、だいたいこんな感じだ。
 東京湾の海底に岩でできた巨大な城があるといわれているが、その真偽を確かめた者はまだ誰もいない。しかし海底の城から訪れた不思議な生き物と交流すると主張する人物がおり、その生き物から「地上の人間を全知全能の神に変える方法を知っているという水底王に仕えている」と聞かされたらしい。主人公のマサオ少年は、海底の謎を解きたいというシロヒゲ博士とともに、博士がこしらえた特殊な潜水艦に乗って城を探す旅に出る。その途中で、賢い生き物との出会いや様々な出来事を経験する中で成長していく。
「俺らなんかは、チャンバラだとか戦記ものを読んで育ったんだもんなあ。隔世かくせいの感、ってやつだ」
「戦記ものとかは、GHQの検閲に引っかかっちゃうからな。この話は浦島太郎を土台にしたんだけどさ。そのうち水底の姫君とか、大詰めで水底王も出てくるから」
「先の展開を話しちゃっていいのか?」
「いけねえ。今の話は忘れてくれ」
 こんな話をしている間にも、店のほうに来客がある。「ぼうけんブック」もよく売れるが、「ぶらいと」夏号を求めて訪れる客も目立つ。
 創刊号の反響はすさまじかった。この本を置いた神田の書店は軒並み問い合わせ対応に追われることとなったし、そのうち他の街の本屋からぶらいと社に直接「雑誌を取り扱いたい」と引き合いがくるようになった。ちなみに夏号から、武村さんが「少女モダン」時代にお世話になった作家の少女小説の連載が始まり、武村さん自身の執筆による「女の子の身だしなみ」をテーマとした随筆も巻末を飾るようになった。今後も創刊号を読んだ読者からの便りを参考にして、さらに内容の充実を図っていくという。
 例えば「編集長である武村さんはこの店をよく訪れるのだ、近くに編集部もある」などとうっかり口に出したら、この本の読者――つまり好奇心旺盛な少女達はすっかり舞い上がって、ちょっとした混乱が起きてしまうだろう。そんな懸念すら抱くほどだ。実際、奥付おくづけに書かれた編集部の住所を見て「この辺で『ぶらいと』を作ってるんですね」と尋ねる子も何人かいた。
 そんなことを考えながら会計をしてやっていると、その武村さんが現れて「ぶらいと」を手にした少女に「ありがとう」と声をかけた。きょとんとしながらも、眉目秀麗びもくしゅうれいな男性にいきなり声をかけられ内心どぎまぎする様子の少女に自ら「この本の編集長だよ」と正体を明かしてみせ、「意見を聞かせてくれたら嬉しいな」と語りかけるも彼女は嬌声きょうせいをあげるばかりだ。甲高い声で「お便りを出します!」と誓う少女を、武村さんは握手まで交わして送り出した。
 しかしそれを見ていた父が、苦言だかなんだか分からないようなことを言った。「武村君、君は見てくれがいいんだからさ。今の場面を見て『軟派な輩の行為』と捉える者も、中にはいるだろうねえ」
「そんな目でみるのは父さんだけだよ、本の作り手が読者の反応を知りたくなるのは当然だ。いい年して嫉妬だなんて、見苦しいよ」
 武村さんはこの会話に苦笑いだけを返し、飯村君が所用で遅れる旨を告げた。
 この人には、後の世の言葉でいうところのカリスマ性といったものが備わっている。それが私の見立てだ。父がいう見てくれのよさ、芸校在学中から示していた多才さ、そして自らの手で雑誌を作り世に問うている行動力。そういった、並の男ならひとつかふたつあれば充分というほどの力をすべて持っている。それでいて、偉ぶったり周りの者を見下したりはしない。こういう人が周りにいれば仲よくしたいと思うのは自然なことだし、困っていれば後押ししたくなる、困難を乗り越えればねぎらいたくなる。
 いつか大人物となる人。その片鱗へんりんを今、見せつけられているところなのかもしれない。そう捉えれば、彼に対しては嫉妬などという感情を抱くこと自体が筋違い、と素直に思うことができる。
 そうしているうちに、芸校の玉井先生・島崎先生・平尾君、さらに遅れて飯村君も店にやって来た。これで勢揃いだ。台所仕事を手伝ってくれた陽子や富枝も加わり、薄暮はくぼの頃に、ささやかな宴は始まった。
 中退者である武村さんや小笠原君と、芸校に残り続けている島崎先生や平尾君、復帰した玉井先生が顔を揃えている。でもそれがどうした、だ。洋画や日本画とは別の道に進んだが、みな今も変わらずに絵を描くことを楽しみ、愛し続け、紡ぎ上げたものを世に問うことができている。絵筆を置いた平澤君も、かつて自身が心血を注いだ世界で出会った仲間を見守り、自らのよりどころとして交流を続けてくれている。
 ご馳走といっても決して豪華なものではないし、酒の量も男ばかりが集まってみ交わすには充分ではない。それでもこのなごやかな席で、互いを労い、今後の期待や各々の展望を語り合い、時には軽口に笑い合ったりする。幸せという言葉以外で表現できるものだろうか、それ以外の言葉などとても浮かんでこない。
 同じまなに身を置いた者同士の話が盛り上がった頃に喜久雄君が疲れた様子をみせ始め、富枝ともども先に帰っていった。それからもしばらく昔話に花を咲かせたが、夜もけてきた。私はこの会を締めくくるべく、卒業生・中退者問わずこの場所で顔を合わせ楽しいひと時を共有できたことへの感慨、才能あふれる3人の仲間を後押しできたことへの誇らしさなどを述べた。
「おい。『これにてお開き』か?」平澤君が、ちょっと険のある口調で言った。
「そりゃそうだ、時計を見てみろよ。喜久雄君達だって帰っちゃったじゃないか」
「ああ、ああ。やっぱり自覚がないんだわ。ねえ、島崎先生」
「そうだな、困ったもんだ。ここからは2次会、第4の主賓しゅひんの時間としようか」
「第4の主賓? 誰のことですか?」
「君のことにきまっておる。日本画家・大畑隆一の今後について、大いに語ろうではないか」
 父以外の全員が「我が意を得たり」という表情になった時はちょっとどきっとしたが、その後は私にとってなんとも言えない時間、身に余るほどのものが横溢おういつする時間となった。
 まず、平澤君が口火を切った。「お前が『3人の激励会をやろう』って言いだした時、俺がどう思ったか教えてやろうか。『なんだよ、激励してもらわなきゃいけない奴が仲間の激励会の幹事をやるのかよ』って思ったんだ。
 それで、本来の主賓にこんな話をするのもおかしいと思ったけど、まず飯村に『あいつ、そんなこと言ってるぞ』って伝えたんだ」
「うん。僕、その話を聞いた時に呆れちゃって。『もしかしたら、もう絵の道を完全に諦めちゃってるのかな。だとしたら寂しいなあ』って思ったの。僕達が頑張ってるのを見て、また描く気になってくれれば、って期待してたのに。
 それで武村さんにも話して『僕達が甘えすぎるのもよくないんじゃないか』ってことにもなったんだけど、だからって距離をおくのも嫌でしょう?『ぶらいと社の頑張りを見せ続けるのもいいかもしれない、これまでどおり接していくことにしよう』って」
「ところが相かわらずだ、さっきの閉会の言葉はいったいなんなのか、ということだ。僕らの奮闘も、発奮材料としては弱かった。絵描きとしての大畑君の心に火をつけるほどのものではなかった、ということになるな」
「いや、あの。そんなことは……」
「こいつ、『ぶらいと』創刊号が出た時に、俺に『店頭の様子を描いてくれ』って紙を持たせて。そこに飾ってあるやつですけどね。ちょっと見てやってくださいよ、俺は大畑が立ち読みしてるところも描きこんでやったんだ」
 平澤君に促され、みな立ち上がってくだんのスケッチに群がった。スケッチの中で、私は背中を丸めて「ぶらいと」を開き、見入っている。よくよく見れば、その後ろ姿はちょっと情けないようにも思えてくる。
「なるほど、大畑君の現状を伝えるに充分すぎる。在校中よりは上手くなったな。
 大畑君、今の君を客観的に見てみなさい。君は『幸せだ、充実している』と言っておったが、それで終わって満足できるのかね?」
 玉井先生の久々の𠮟責しっせきにどう返答すればいいか分からなくなっているところに、小笠原君が言葉を継いだ。
「俺、ここに初めて来て大畑君に人物画を教えてほしいって頼んだ時にさ。『え、大畑君は描いてないのか?』って思ったんだよ。なんだかすごく意外だった。いくら混乱期だっていっても、描いててほしい人が描いてないって、寂しいよなあ。まあ、俺を筆頭に君にはみんなさんざん甘えてきた、それなのにこんなことを言い出すのもおかしいかもしれないけどさ。
 それでさ。君はこれからも描かないのか、例えば展覧会出品を目指したり、そういう方向にはいかないのか?」
「ちょっと、なんであなたが言うのよ。小笠原君が言うことじゃないわ」
「なんで俺が言っちゃいけないんだよ!」
 陽子と小笠原君が、おかしな言い争いを始めてしまった。芸校組にとっては、私が本格的な制作活動を再開させることは一番の肝、ともいえる話だったらしい。「展覧会出品」という言葉は切り札といえるほどのものであり、それを遺恨のある小笠原君が口にするのが気に入らない、ということのようだ。
「隆ちゃんは『戦争のための絵なんか描きたくない』って、ずっと思ってたわけでしょ? でもそういう戦いはとっくに終わってるはずじゃない?」
「ああ、飯村君が言うんならいいわ。大畑君に言ってあげてよ」
「え、僕が? ここは恩師にお願いするべきじゃないのかな」
「そうね。島崎先生」
「私ではないのか。陽子くん、君も私のことを道化か何かだと思っておるようだな」
「やっぱり島崎先生にお話ししてもらいましょう。自覚の話がいいわ」
 そういえば、ということもないが、陽子が初めて店に顔を出した時「先生は『大畑には自覚がない』と言っていた」と教えてくれた。描く人ではなくなっている自覚ならあったがそのことではないような気もした、やっぱり分からないや、と棚上げにしていた件だ。
 島崎先生いわく。
 久しぶりに芸校に顔を出してくれた時、私達3人は「次に続いてほしい、新たな潮流を生み出し世に問うことができるのは君だ」と暗に伝えたが、君は気づいてくれなかった。店が忙しいという噂も聞いていたし無理強むりじいしてもいけない、と遠慮した部分もあった。君とお父さんには大変失礼な言い方になってしまうが、この店に私が顔を出さなかったのは、絵描きとしての君になら用があるが制作活動以外のことに忙殺される君には用がなかったからだ、と言うこともできる。
 君と同じように芸術を愛する者、絵をとおして世の中に貢献しようとしている者を助けるのは楽しくて当たり前だし非常に意義のあることだ。しかし我々は、(武村君も言っていたように)君が助けた者達の姿を発奮材料にして立ち上がり、再び描き始めるのを待っていたのだ。君は縁の下の力持ちで終わるような人間ではない、そこで終わってほしくはない。君を知るすべての人間がそう望んでいる、どうか我々の思いを理解して一歩踏み出してほしい。
「いやあ。皆さんがそんなに、うちのせがれが描くことを待っていてくださったなんてねえ」
 父が頭を掻きながら、しかし感慨深げに言った。「かえすがえすも、私が倅に甘えちゃったのがいけなかった。そろそろ皆さんにお返ししなきゃいけないんだ。
 隆一、描きなさい。こんどは絵を描くことで皆さんを喜ばせればいい。お前の本領じゃないか」
 自分ができることで街が、絵の世界が元気を取り戻してくれればいい。そのために私なりの奔走を続けている間に、いつの間にか三十を過ぎていた。尋ね人の貼り紙で多くの人を再会させたことから始まって、店を再開させ本を読む楽しさを街の人に届けたこと、武村さん達が立ち上げる出版社のオフィスを紹介し雑誌創刊まで後押しを続けたこと、そして子どもを幸せにする絵を描きたいという小笠原君と芸校の間を取り持ってやったこと。どれも、驚くほどいい結果を出すことができている。
 その後、私も本当に久しぶりに紙本と向き合った。ひどくぼんやりしていたかもしれないが、楽しさをたしかに感じていた。
「次は俺の番だ」と思ってもいい。周りの人は私がそこに気づくのを待ち、その後生まれる作品を期待してくれていた。あとは俺次第、だったのか。
「そろそろ、やってみてもいいのかな。
 あべこべに俺が教えてもらえばいいか、小笠原君の細密描写を」
「馬鹿いうなよ、本物の日本画家を目指せる奴に俺が教えることなんてあるもんか」
「大畑、日本画家になれなくても平和ならそれでいい、と思って生きてきたわけじゃないだろう? 描かなきゃ。みんな待ってるんだぜ」
「そのとおり。君の分身たる青海君は君が絵筆をとるのを草葉の陰で待ち続けておるはずだ、待ちぼうけを食らわすつもりか。
 君が描かねば、日本画が滅亡する。そのつもりでやれ!」
 玉井先生の大袈裟な言葉がいかにも先生らしくて笑いそうになってしまったが、この言葉が一番効いた、かもしれない。
 それまでの私は、どこかで絵を描く自分に戻ることを禁じていたのかもしれない。私は戦争が終わるまでの数年間、その時どきの世の中の苦しみに背を向けて自分ひとりの苦しみに固執してきた。そのみそぎの時間に、それまでの日々を充てていたのかもしれない。
 そろそろ、やってみてもいいのかな。
 私は先ほどそう言った、その時が来たのだろうし自らその道に踏み出さないといけない。前に進まないと時間ばかり流れてしまう、あっという間に年寄りになってしまう。

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