例の応募作の原文(第4部のつもり⑧)

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 梅雨明けの数日後。「ぶらいと」夏号と、小笠原君が挿絵を手がける新連載「水底巨岩城」を巻頭に据えた「ぼうけんブック」が我が店の店頭に並んだ。その奥で、私と父、平澤君の妻の富枝、そして陽子は3人の激励会の準備を始めていた。富枝と一粒種の喜久雄君を連れてきた平澤君は、机を出したりなどの手伝いを終えてから子どもを連れて散歩に出た。
 平澤君は「とんでもないご馳走が出てくる」などと言っていたが、このご時世で卓上をにぎわすような食材が用意できるわけもない。かといって、台所仕事を担う父や女性ふたりが手持無沙汰てもちぶさたになることもなかった。闇市で「普段よりはいくらかまし」といえるほどのものをなんとか調達できたし、父が千葉からなんやかやもらってきた。
「九十九里の家で『ずっと飼っていた鶏が卵を産まなくなったから、若鶏を新たに飼い始めた』っていうんだ。『年とった鶏はどうした?』って訊いたら『丸焼きにして食っちゃった』だってさ。いいよなあ、向こうの連中は」
「鶏肉をもらえたとしても、こっちに持ってくるまでに傷んじゃうだろう」
「栃木でもそんなことがありましたよ。処理するところなんてとても見れなかったけど、『東京の子は駄目だなあ』って笑われちゃって」
「自給自足で暮らす人にとっては、鶏がどうのなんて歳時記みたいなものなのかもな」
「私は山梨に疎開してたんですけど。疎開先が農家じゃなかったし、そこの家の奥さんが『たんぱく源をらせないと、子どもが育たないから。かえるでもなんでもいい』って、こんなに大きいのを近所のおじさんにってきてもらって。もう、何匹もいたんですよ」
「うし蛙、ってやつだろう? 夜になると『ぶおー、ぶおー』って大きな声で鳴くんだ、ちょっと牛らしくもない声だけどな。あれは鶏肉みたいな味がするっていうけど、富枝ちゃんは食べたのかい?」
「目をつぶって食べました。味はどうだったかしら」
「もう思い出したくもない、ってところか。どこにいても食の苦労は同じだな。俺は新潟の街なかにいたけど、さすがに蛙はなかったよ。
 でも陽子ちゃん、よかったな。鶏肉を食べずに済んだな、その代わりに卵の山がある」
「卵はいいけど。別に私、鶏肉を食べられなくなった、ってことはないのよ」
「いやはや、その食い意地の素晴らしきかな、だ」
 父の軽口に一同大笑い、となったところで、私にも魚を食べられなくなっていた時期があったことを思い出した。でもそれすら忘れていたほどだ、今はもうなんでもない。きっと私自身にも、平澤君ほどではないものの「疲れ」といえるものがあった。帰京後、仲間達のために奔走しているうちにすっかり立ち直って、戦中はもちろん芸校時代の私ともまた違う姿になった感がある。
 そして、今の私はこれから、私自身が描く絵というものにどう接していくのか。それはひとりになった時にじっくり考えればいいことなのかもしれない。
 仲間達のところに意識を戻し、私はちょっと思い切って、富枝に尋ねてみた。「富枝ちゃん。発ちゃんの普段の様子はどうなんだ、無理してるようなところはないか?」
「そうね。いつもにぎやかにしている、っていえば『なんだ、昔のままか』って言われちゃうかもしれないけど。
 職場には近所の顔馴染みの人がいるし、あの人らしくすぐに溶けこんだけど。『話上手で場を明るくする達人だ、それは結構だけどうるさいぐらいだ』って笑われちゃうんですって」
 職場でも家でもよく話し、経験のなかった業務を一日も早く習得すべく努力も続けている。家に仕事関係の資料を持ち帰ってしばし向き合い、家族と夕食を食べ、喜久雄君を風呂に連れていき、帰ってきたらしばらく遊んでやり、寝かしつける。子どもが寝たらまた勉強の時間、さらに富枝との語らいもおろそか・・・・にはしない。
「とにかく、お布団に入る直前までじっとしてないのよ。『それじゃ疲れちゃうだろ』って思うでしょ? でもきっと、にぎやかにしてないと辛い気持ちがぶり返しちゃうんだろうな、って。
 仕事を始めてからは、ちょっと収まってきたんだけどね。あの人、毎晩うなされてたの」
 なあ、もうこんなことはやめよう。絞り出すような声で繰り返し、涙と脂汗にまみれて胸の辺りをかきむしるような仕草をみせる。
 この光景を初めて目撃したのは、深川での一家の暮らしを再開させた日の夜だった。恐怖のほうが先に立って、本人どころか誰に言える話でもないとひとり悶々とし、同時に「とても無理させられる状態ではない」と悟った。もちろんすぐに平澤君に働きに出てほしいと思ってはいたが、富枝は内職仕事を見つけ、さらに地元の人に「どうか助けてほしい」と頭を下げて回った。
 正直なところ「愛想が尽きたのかも」と思える瞬間もあったという。夜ごと夫がうなされる声に目を覚まし、収まった後は自分が寝つけなくなる。それでも朝になればまた、何もできないままの亭主と幼い子どものために奮闘する一日を過ごさなければいけない。
 ある夜のこと、例によっての呻き声に眠りを破られた。思い切って彼を起こしてみるか、いや寝言に応えるのは縁起が悪いというし…… と思案していると、喜久雄君も目を覚ましてしまった。この子はこれまでにも父親がうなされるたびに何度か目を覚ましていたが、寝たふりでやり過ごしていたことを富枝はこの時に知った。
「あの子、『お父ちゃん、よっぽど辛かったんだなあ』って言ったのよ。私は多分、あの人が『おかしくなって帰ってきた』って思ってたの、でもあの子は『辛い思いをして帰ってきた』って分かってたのね」
 それから、頬を赤らめて続けた。「私、昔の『格好いい発ちゃん』じゃなくなったのが嫌だったのかもしれないわね。じゃあ、昔の発ちゃんに戻ってもらおう、って。昔の写真もなにも、それこそあの人が卒業制作で描いてくれた私の絵だって残ってないけど、記憶にはちゃんと残ってるんだから。
 みんな見たことあるんでしょう、あの人の卒業制作。私のことをあんなに素敵に描いてくれたんだもの、私だって元に戻らなきゃいけないんだ、って」
 平澤君が私に話してくれたことは、伝えずにおいた。それでもふたり同様に彼が描いた卒業制作を思い出し、元に戻らなければと考えたあたり、さすが夫婦、という他ない。
 
 九十九里や闇市で入手した食材以外に、この店に時折顔を出す米兵が恵んでくれた缶詰などをいくつかとっておいたものがあった。それらもきょうすれば、「いくらかまし」どころか3人の奮起を促すのにふさわしいものになるだろう。
「進駐軍も来るの? 視察みたいな感じで?」
「いや、非番の時に、自分の趣味で足を運んでるって感じだな」
 その米兵はひとりで、私服姿で店の前を歩いていた。帳場に入っていた私は思わずじろじろ見てしまったが、彼はやおら・・・店の中に入ってきて流暢りゅうちょうな日本語で「日本の面白い本がほしい」と言った。どんな本がいいのかと訊ねたら「日本の芸術に興味がある」と答えた、芸術といってもさほどかしこまった・・・・・・ものではなく庶民に馴染みがあるものがいい、という。それで例えば浮世絵だとかそういった本を店の奥から引っぱり出して見せてやったらひどく喜んだので、専門書を扱っている店や摺師すりしの工房などを紹介してやった。
「その後もちょくちょく顔を出すようになってね、今では常連さんだ」
「へえー」
「たまに他所よその本屋に連れて行ったり、そこで『誰それさんの家にこういうものがある』って聞けば一緒に見せてもらったり。昔ながらの玩具というかな、そういうものにも興味があるらしいんだ。芸術よりは民俗学寄りかもね」
 名前を訊ねたら『ディッキーと呼んでくれ』と答えた彼は第二次大戦の開戦前に日本文化に興味を持つようになり、大学では日本人講師から日本語を学んだ。太平洋戦争開戦後は海軍将校として日本人捕虜の通訳に従事したそうだ、日本軍は玉砕したと伝えられた所にも行っていて、「数十人の生き残りに尋問をした」と悲しげに振り返っていた。
「ディッキーさんがね、『日本人はあの戦争についてろくな情報もないまま召集されてとんでもない場所に行かされて、敵だけでなく飢えや疫病しっぺいとも戦わなければいけなかった。これは非常に残酷な話だ』って言うんだよ。
『興味があった国が敵になり、捕虜と敵の将校として接するようになったのも残念だったが、ひとりひとりと話してみれば善良な人間ばかりだった。やはり悪い民族ではない、とそういう場で再認識したのは悲しかった』って」
「うーん。日本に興味があるっていうのは、今のアメリカの人はみんなそうなんだろうな、って思うけど。じゃあ、なんでこんなことになっちゃう前に言ってくれなかったのかしらね、『興味がある』って言ったらいくらでも教えてあげるのにね」
「そう思うだろう?」
 私は「日本のことをいろいろ教えてほしい」と彼に頼まれた時、なぜか青海君のことを思い出した。彼がその場にいたら快諾かいだくしただろう、彼はきっと「嬉しいなあ」と笑顔を見せ「どこでもご案内しますよ。なあ、隆一」とかたわらにぼんやり立つ私に言っただろう。
「俺も、陽子ちゃんが言ったのとまったく同じことを考えた。『なんでもっと早く言わないんだ、いくらでも教えてやるのに。きっと、戦死した俺の同級生だってそうだよ』ってのどまで出かかったけどな。でもディッキーさんはいい人なんだ、あの人は本物の親日家だ。ここで知りえたことを軍に持ち帰るような人でもなさそうだ。だから俺はつき合ってやることに決めた」
「彼の分まで、っていうのもあるんでしょ?」
「まあ、多少は」
「青海君は、本当に残念だったな。うちにもよく遊びに来てくれたんだ、卒業制作の時なんかこいつのために泊りがけで手伝ってくれたんだもの。
 そういえば、この本屋街は空襲でやられなかっただろう、他は丸焼けだったのに線を引いたように残ってるじゃないか。『米軍がこの街を避けて爆撃したという噂があるんだが、それは本当か』って訊いてみたんだよ」
「え? なんて答えたんですか?」
「いや、苦笑いしてたな。『本屋街にはいろんな資料が残ってるはずだ、そう思って焼かなかったんじゃないか』なんて話もあるだろう? さすがにそこまで踏み込めなかったけどな」
「神田川があるから延焼しなかったんだよ、父さん」
 父が言ったような噂は、私ももちろん耳にしていた。戦争なんかになる前に本屋街を訪ねて「面白い資料はないか」と言ってくれれば済んだことなのに、と思って少し腹が立ってしまう。だから否定することにしていた。
 日本に興味があるならなぜ訊いてくれなかったのか、悪いところがあったならなぜきちんと指摘してくれなかったのか。お国の偉い人が話の分からないおろか者だったとしたら、一足飛びで我々のような市井しせいの人のところにでも来ればよかったのに、とさえ思ってしまう。そんなことが実現するはずはないが、それができれば誰も死ななかったはずだ、と思ってしまう。

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