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黄金のレガシー感想#1 過去作のオマージュについて

めちゃくちゃ面白かった!
プレイ中、全メインクエストについてつらつらと思ったことを書き留めたのだが、いかんせん量が膨大なのである程度まとめて記事にしようと思う。

ここから黄金のラストまでのネタバレあり














まず、FF9のオマージュについて書こうと思う。ここが一番自分の中で評価が難しかったので早めに整理しておきたかった。
性質上、FF9のネタバレも含んでいるのでご理解ください。


前提

FFは結構プレイしていて、FF9もプレイ済み。9はめちゃくちゃ好きだが、狂信レベルで好きなFF4のようにオープニングからエンディングまで通しでの語り部ムーブはできない程度である。ビビ人形は持っている。

黄金のレガシーを通底するテーマは「Melodies of Life」

『Melodies of Life』とは、FF9のエンディングテーマだ。

黄金では死生観について繰り返し語られるが、要はヨカフイ族の思想――覚えている人がいてくれる限り真に死んだとは言えない、というのがFF14の世界における正答、というのが結論になる。エメトセルクが漆黒で最後に言った「ならば、覚えていろ。私たちは……確かに生きていたんだ。」という言葉とも完璧に対応する。光の戦士たちがエメトセルクたちのことを覚えている限り彼らは真に死んだとは言えない、という考え方は「私は、見たぞ」に引きずられている光の戦士(プレイヤー)たちに強く訴えるものだろう。

ヨカ・トラル編ではFF9の要素がほとんど出てこないのだが、ヨカフイ族が出てきて死生観を語り始めたあたりで、ちょっとMelodies of Lifeみを感じ始めていた。

14のアレクサンドリアと物語の構造について

こんな国はアレクサンドリアではない

ヘリテージファウンドで、ようこそアレクサンドリアへ、と言われる。私は「え、どこが!?」となった。電線が通っている国がアレクサンドリアなわけあるか。アレクサンダーが出てこないのにアレクサンドリアとは? などなど違和感がバリバリあった。
そんなわけでスフェーンに対する好感度はマイナスからスタートした。

メインクエスト「雷雲に覆われた地」では

理王スフェーン、どこまで本当のことを言ってるのやら
「アレクサンドリアの女王」は養子に冷たく当たったカスだったし疑っちゃう
※ブラネについて、今際の際にガーネットにかけた言葉のほうが本音だということは理解しているが、どうにもこの印象のほうが強く残ってしまっている。

「人を知り、国を知る」では

(アウトスカーツの人々に対して)なんかやりたいことやらせて自己実現させとけばいいだろという感触を覚えるな
スフェーンは人の心に入り込むの早すぎて怖い

とメモしてあった。どうも出会った瞬間から不信を抱き、スフェーンをラスボス認定していたようだ。

アレクサンドリアが機械によって発展し、そしてかつての町並みは滅びたという設定は、9のオマージュとしてはまったく受け入れられなかった(というより、受け入れる準備ができていなかった)。アレクサンドリアの町並みにエレクトロープがチラチラ覗いているのは、異形にしか見えず怖かった。
このゲームはFF14であってFF9ではない、と割り切れないまま物語を進める9ファンがいたらかなりしんどい気持ちになっただろうことは想像に難くない。

しかし、9をプレイした人間が14のアレクサンドリアをどこか気持ち悪いと感じるのは、意図的なものかもしれない、と思った。
というのも、

ヨカ・トラル編で語られた死生観=Melodies of Lifeと同じ価値観

なのに、

スフェーン自身がMelodies of Lifeを間違った形で引用する

からである。
私は9を間違って解釈しています、とスフェーン自身にはっきり言わせているのだ。

今回の敵は『解釈違いのアレクサンドリア』

ラストバトルの最中、ウクラマトに対してスフェーンが吹き出しで

「命は続くよ……!」

と言う。言ってたと思う。

命は続く、どう考えてもMelodies of Lifeの歌詞を意識しているセリフである。
しかしこのときスフェーンの言葉は、「永久人の命は続く」という意味だ。FF9のエンディングでビビがとった行動とはである。
14では、「記憶を雲の上に預ける」と、永久人を作り出すことになる。
9では、「ボクの記憶を空にあずけに行くよ……」というセリフのあと、次の世代が生まれたことがはっきりと描かれている。

もはやこうなると完全な「間違い」である。
わざとだろう。

14のアレクサンドリアは道を誤った敵だ。それが、「9のアレクサンドリアが完璧に再現された」敵だったら、正直かなりイヤだ。
スフェーンはガーネットではなく、オーティスはスタイナーではない。敵として描くためには別の存在でなければ困る。
FF4のゴルベーザはそもそも敵だったから戦いやすいところはあった。14においては、結局ゴルベーザを名乗っていたのはドゥランテというFF14のオリジナルキャラクターだった。この落としどころはよかったなと感じている。4をやってるわけではないから。

そんなわけで、9のキャラクターやストーリーとあえて乖離させるために、9のファンタジックな部分と相容れない要素(電気で動く機械、プログラムなど)を融合させたのではないか、と考えた。
Melodies of Lifeの解釈を間違っている敵を倒すことで、14の世界もまたMelodies of Lifeであることを示す構造になっているんだろう、たぶん。

過去作へのリスペクトの表現方法が回りくどくて誤解されそう

しかし、人によっては、14が9の世界観を冒涜しているとすら感じるんじゃないだろうか。こんなメカメカしいの、アレクサンドリアじゃない……召喚士のいないアレクサンドリアなんて片手落ちだ……と、私でさえ思う。

とはいえ、「9を冒涜するような態度の敵だからすっきり倒せる」とも言える。

過去作で味方だったものが敵として書かれたのは、今回が初めてのように思うがどうだろう。敵として描くために、意図して9のアレクサンドリアからかけ離れた存在にしたんじゃないか。

9をリスペクトしていればこそ、9そのものと戦わせようとはならない。「アレクサンドリアみたいな素敵な場所をプレイヤーに歩いてほしいし、9の素晴らしい音楽を聞いて思い出に浸ってほしい」が、それと同時に「ラスボスの国」として書かなければならなくて、その塩梅で悩んだんじゃないだろうかと邪推してしまう。
要は「解釈違いのアレクサンドリア」を「倒す」という二重否定の形で9へのリスペクトを示しているんだろうが、正直回りくどいと感じた。もっと素直なオマージュでよかった。『希望の園エデン』が8と14の要素の融合コンテンツとして完璧だと感じたぶん今回はちょっとガッカリした。これはもうアレクサンドリアを敵にするという物語の構造が先行していたからかな、と思う。
そして個人的な思いを言えば、二度と過去作の主人公サイドを敵にしてくれるな

イヴァリースアライアンスで登場したラムザ・レクセンテールがラムザ・ベオルブとあまりにも別人で、これは別の世界なんだなとしっかり思わせてくれたのは、今思えば親切な導入だったと思う。

過去作要素がFF14ナイズされたとき許容できるかどうか

ほかに出てくる過去作とまったく同じ名前の国・地域としてはクリスタルタワー、エウレカ、バル島、ドマ等があるが、このあたりに関しては、実は自分の中で腑に落ちていないものもある。バル島がエウレカなのは未だに頭がおかしくなるし、オルト・エウレカのことを「真のエウレカ」と呼んでいる。
私の場合、クルル、オメガといったFF5の要素がFF14のキャラクターとして独立しているというのを受け入れるのに、かなり時間がかかっている。クルルはあのクルルとは別人だな、ととらえているが、オメガについては「FF5のボスなのになあ……」と未だにちょっと思っていたりする。
このあたりを割り切っていけるかどうかはプレイヤーひとりひとりの感じ方しだいだと思う。自分でも、なぜクルルは大丈夫でオメガには違和感を覚えるのかまったく言語化できない。「クルル・バルデシオン」というめちゃくちゃ据わりが悪い名前について回収されたとき、予測可能回避不可能の一撃に感激してボロ泣きしたので、自分の中での許容基準がわからなくて困っている。

リビング・メモリーのイベントをプレイしているときは本当にめちゃめちゃ楽しかったのだけど、100IDのアレクサンドリアはしんどかった。このあたりも許容の基準が曖昧でよくわからない。

私は過去のFFが好きすぎて、14以外のFFを知らない人との間に温度差を感じることも結構ある。この件は14をやっている間ずっと悩んでいたことだったので、改めて考えることができてよかった。
全体を通して黄金はおもしろかったし好みのストーリーではあったのだけど、妙なモヤモヤは残ってしまった。素直に楽しみたいのに、過去作の思い出が割り込んでくるので、「上手いこと匂わせる程度」のオマージュに留めておいてほしいかな……と思う。そうすれば、『似ているがまるで違うものを許容する』過程が不要となり、「おお懐かしい!」って喜ぶだけで済むから。


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