父と私と競馬と

 あなたの生まれた年のダービー馬はなんですか?
 
 シンボリルドルフ? スペシャルウィーク?
 アイネスフウジンとか言っちゃう?
 え?フサイチコンコルド?ディープインパクトとかいっちゃうと、おばさん、小1時間ほど説教しちゃうよ?
 ちなみに、私が生まれた年のダービー馬はラッキールーラです(歳がバレます)。

 なんでダービー馬の話かと言いますと、私の父は私の出産費用をその年の皐月賞馬ハードバージに突っ込んで溶かし、母にこっぴどく叱られたため競馬を大っぴらにしなくなった理由だったりするからです。このこともあってか、「博打はいかんものだ」という躾もしっかりされました。
 私の故郷は和歌山で、紀三井寺競馬場の財政難による閉鎖があったり、岸和田の春木競馬場が地元と揉めて閉鎖に追い込まれたりと、競馬になんとなく負のイメージがつきやすい環境下であったため、さらに競馬とは縁遠いものとして幼少期を過ごしました。
そんな中でもトウショウボーイ、ミスターシービー、シンボリルドルフ、ハギノトップレディ、マックスビューティーなどの数々の名馬の名前を覚えていたのは、こっそりと馬券を買ってた父と土日の関西テレビのおかげだったのかもしれません。
 
 
 小学校高学年ごろからオグリキャップ、トウカイテイオー、メジロマックイーン、そして武豊、と競馬ブームが到来。ファミコンゲーム「ダービースタリオン」が発売され、子どもたちも競馬に触れることが多くなり、カジュアルなものへとイメージが変化していきましたが、それでもやはり「博打はよくないもの」として育った私が一口馬主をしるようになったのは、主人と出会ったことからでした。

 一口馬主の会員さんたちの悩みの種である「奥さんに競馬という趣味を理解してもらえない」を克服し、さらに、「嫁と共に愛馬の口取りをする」という目標を実現した旦那が、私に取った方法は、「ロマンに訴える」という方法でした。
 歴史やアニメ、マンガ、あらゆるホビーと言われるものが大好きなオタクである私に競馬への道を開かせるために、まず競馬マンガを読ませました。
 馬なり1Fで軽くジャブを入れ、ある程度の知識が入ったら優駿の門、風のシルフィード、マキバオーときて、じゃじゃ馬グルーミン⭐︎アップでトドメを刺して競馬場に行って本物のレースをみさせるという順番で、みるみる競馬にハマっていきました。
 最初は主人と一緒に競馬場にいっていましたが、最終的にはG1レースは必ず競馬場に1人で行き、大好きな馬の馬券を握りしめてみるようになっていました。

 そんなある日、「一口馬主をするのが夢だったんだ」と言いだしたのが、ちょうどディープインパクトが三冠をとった年。私はシーザリオとラインクラフトを追っかけていた年でした。
 シーザリオがキャロットクラブの馬だったことはつゆ知らず。色んな資料やサイトを見てキャロットクラブに入会し、初めてそのクラブの所属馬であることを知ったのでした。まさかシーザリオが深く私達の人生に関わってくるようになっていくのは思いもしませんでしたが、それはまた、別のお話。
 
 こうやっていつのまにか10年以上も経ってしまいました。

 その間に何頭かの愛馬がG1を取ってくれるという幸運にも恵まれ楽しい思いをしているという話を、いつの間にか父が笑いながら聞いてくれていました。父を叱りつけた母も競馬に興味を持ってくれ、2度ほど一緒に淀に出かけました。

 6年前、病床にあった父と一緒にステイヤーズSを見ていました。ファタモルガーナの3回目の挑戦。今回こそはと意気込んで応援していましたが、ゴール直前で差され2着となり、臨場していた主人との電話で「残念やったな、悔しいなぁ。また次頑張ってもらうかぁ」と父と2人で話していたのでした。
 
 2週後の12/22、父は治療の合併症で亡くなりました。父は、娘が自分の好きなことに同じように好きになってくれることが嬉しかったようです。
 馬の話や牧場に行った話も興味深く聞いてくれていました。

 今年も愛馬がステイヤーズSを走ってくれました。結果は8着、ファタの2着が1番の成績でまだ勝てていません。
 ダービーも今まで2頭出てくれましたが最高が2着。その時は愛馬の名前が入った馬券を握りしめて号泣しましたが、父のように大金をすっ飛ばさなかったのは父の反面教師が功を奏しているのかもしれませんね。


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