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南平台の記憶・その11 団地がウヨウヨあったころ

昭和40年代の南平台には二つの会社の社宅アパートがあったほか、国家公務員宿舎のアパートもあった。南平台の隣町、鉢山町にも、電電公社のアパートが何棟かあったし、通っていた鶯谷さくら幼稚園の向かいにも、大きなアパートが4棟建っていた。この4棟は公営住宅で、「うぐいす住宅」という名前だった。2010年ごろの大規模な再開発で、団地のうしろに隠れるようにしてひっそりとシックにただずんでいた、ノースウエスト経営の外国人向け一戸建て住宅街、エヴァーグリーンパークホームズと前後して、どちらもすてきな低層マンションになってしまった。

ともあれ当時は団地がいっぱいあった。どれも似たり寄ったりの四角い建物で、内部は同じような2DKとか3Kとかだっただろう。そこに住んでいる子供たちとは同じ幼稚園や小学校に通った。そういう子が多かったし、団地住まいであることに引け目を感じたことはなかった。が、あのあたりに昔から住んでいた人たちから見て、ポッと出てきて、あっという間に地元もんヅラする団地族というのは、どんなふうに見えていたのだろうな、とちょっと思ったりする。

今はまた、そうした団地の跡地には、お金持ちしか住めないような低層マンションが建っているのだから、ある意味、元のような土地柄になったと言えるのかもしれない。
隣りの松濤に比べれば、南平台町や桜丘町、鉢山町、鶯谷町は、昔はかなり庶民的な街であったとは思うけれども。

ちなみに、南平台の新日鐵の社宅(わたしが年長になる頃までは八幡製鐵との合併前で富士製鐵の社宅だった)は、現在では社長公邸(もちろん日本製鉄の)になっているのだそうだ。あんなマンモス団地があった土地に、たった一軒の家!?と思ってしまう。
(ちなみに「マンモス団地」というのは、当時のわたしの印象。その後、高島平団地のような本物のマンモス団地ができる前の、昭和40年代の話だ。)

一方、公務員住宅のアパートが意外にも昔のままに健在のようで、これは今や、「特権階級」の住まいと言わざるを得ない。あのあたりで残っている唯一の団地アパートではなかろうか。
というか、都内、いや全国レベルでも、珍しい存在になりつつあるのかもしれない。
鉢山交番の五叉路のところにある。

そういえば、Googleマップで見てみると、鉢山交番も建て替えられたように見え
るのだが、それでもあそこにずっと存在してくれているのが、とても嬉しい。







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