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南平台の記憶・その16 道玄坂に住んでいた同級生

これまでの人生で、断捨離をしてしまったあとに後悔をしたことはほとんどない。

が、例外的に、あれは惜しいことをしてしまったな、と思うもののひとつに、大和田小学校の住所録がある。

学校が毎年発行していたもので、わたしは三年生まで大和田に通っていたので、三冊の住所録を持っていた。A4より少し小さかったような気がするが、B5ほど小さくもなかったくらいの(そんなサイズあるかな??)薄い小冊子で、クラス別の全児童の住所、電話番号、それに父母の名前(か、保護者名一名だったか?)まで載っていたという、昭和を感じる住所録だ。

ずいぶん長いこと取っておいたが、人生一番の大きな引越しをしたときに捨ててしまった。だから処分してもう25年は経つが、時間がたてばたつほど、ほんとうに残念なことをしたものだという後悔が増す。

この三冊の住所録だけからでも、渋谷の移り変わりを垣間見ることができたかもしれないなと、今になって思う、という理由がひとつ、あとは、顔しか覚えていないクラスメイトの名前を思い出したいなあという単純な思いがある。

まず第一の理由の、渋谷の移り変わり問題。

校区には道玄坂も含まれていた。道玄坂一丁目という坂の南側、というか、渋谷駅の方から見ての左側だけだったかもしれない。(北側の二丁目は、大向小学校の校区だったのではないだろうか。)

ともかくクラスメイトには道玄坂商店街の子どもが何人かいた。
道玄坂には大きなビルも建ち始めていたと思うが、まだまだ個人商店も健在で、職住一致の人が大勢住んでいたのだ。
(大和田にも、まだ一学年にクラスがふたつあった)

わたしが3年生になるまでに、つまり昭和46年から48年の間に、道玄坂のお店は残したまま私鉄沿線に移住し、親は店まで通勤、子供であったわたしの同級生は大和田に越境通学することになったという家庭がひとつあった。

越境通学は当時の大和田では珍しいことで、(といっても、のちにもう一人、都心への越境通学を目的に神奈川県から転校してきた人が一人いたけれど)、道玄坂での職住一致をやめてお店を残して移住した場合、あるいはお店を廃業して移住した場合も、子供は転校するのが普通だったのではないだろうか。

だから、住所録から道玄坂の住所の子供を拾い出し、翌年、翌々年と比較してみて名前が消えていた場合、お家のご商売に何か変化があって転校したのかな、と想像することができそうだ。

それがどのような業態のお店の子供だったのかを調査してみたら、その頃の道玄坂の移り変わりが、なーんとなく見えてきたかもしれないなあ、などと思ったりして!

いや、そんなたいそうなことでなくとも、道玄坂から同じ小学校に通っていた子供達がいたという事実がただただ興味深く、あの子たちは、道玄坂の「どのへん」に住んでいたのかな? という単純な好奇心に駆られてしまうのだ。

南平台、桜丘に住んでいる子の中には、「⚪︎⚪︎さんて社長令嬢なんだって」と意味がよくわからないながらもみんなに驚かれている子がいたり、大きな一軒家に住む子もいたから、クラスは「道玄坂組」、「それ以外の資産家地元組」、「社宅組」に三分されていたのかもしれない。無論、当時の子供達は、そんな区別をまったく意識せずに友達づきあいしていたけれど、今思うと、かなり面白いミックスだったのかもしれない。
そんなことを、住所録を眺めて、確かめてみたかった。

いやいや、前置きが長くなってしまった。
住所録のことを持ち出したのは、わたしの電話欄に、三年とも(呼)マークがついていた、ということを書きたかったのだった。

寄り道が長くなってしまったので、本題については次回に・・・。


※トップ写真の右手に見えるのは、南平台アパートの敷地から見えていた、ご近所の「さくらマンション」。左手は、お隣りの一戸建てだろうか。








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