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'90 スパ24時間レース vol.1

初めてのスパ・フランコルシャン

チームZEXELからGT-Rがスパ24時間レースに初参戦。日本人ドライバーの都平健二、木下隆之、福山英朗、服部尚貴。チーム総監督は日置和夫 が務めた。55号車がクラス2位。56号車がクラス3位を遂げ、GT-Rが1-2-3フィニッシュを飾った。

都平健二、木下隆之、ダーク・ショイスマン

ZEXELスカイライン56号車。
予選ドライバーを担当した都平はスパの名物コーナー「オールージュ」でスピン!   この時の事をご本人にインタビューをしてみました。

私:予選中にオールージュでスピンしましたよね。オールージュにアクセル全開で飛び込む映像が残っています。

都平:初めてのスパ。予選で初めてコースを走りました。オールージュは緩やかな下りカーブの次に、急な上り坂です。簡単そうに見えたので、アクセル全開で飛び込みました。
そしたら、スピンしちゃった。

私:クルッと一回転してコース上で止まっていますよね?

都平:そうなんだよ。スピンしたけど、車は無傷だったよ。  この時点で予選2位のタイムはでていた。 本当は予選1位を狙っていたけれどね。

私:予選1位は現地チームのヤンスピードでしたね。

都平:本当は、僕たちが予選1位を狙えたよ。 でも、僕が予選アタック中にスピンしたでしょう?僕の走り方を見た、監督の日置さんが「これ以上、アタックしないで。予選2位で十分な走りだ。」と言うから。予選2位となりました。

私:ありがとうございました。〝続く〟

木下隆之さんがNOTEでブログを更新しているのを真似して、都平さんの昔話をUPしてみます。これからよろしくお願い致します。

下記のYouTubeで都平さんのトークがご覧いただけます。



都平健二の遍歴

茨城県水戸市出身のレーシングドライバー。モトクロスの名門『城北ライダース』に所属。その後、大森ワークスと契約し、1969年には、R382で日本グランプリを出走。高橋国光と組み日産のエースナンバーであるNo.23を走らせた。1970年代はスカイライン2000 GT-R・フェアレディ240Zで参戦。ハコスカ50勝目を記録した富士300kmスピードレースでは豪雨の中で驚異的な速さで快走するも、リタイアに終わる伝説を残した。都平はスカイライン2000 GT-Rで4勝を挙げている。フェアレディ240Zで日本グランプリを二連覇し、鈴鹿1000kmでは高橋国光と優勝。1980年代のマイナーツーリングではサニーで通算21勝をはたし、JSSでは通算16勝を挙げ、4度のシリーズチャンピオンに輝いた。1990年代はスパ24時間でクラス3位を果たす。N1耐久では4勝を挙げ、1994年に念願のシリーズチャンピオンを獲得。 そんな都平の名言のひとつが「コーナーは真っ直ぐ走る ブレーキは踏まない」
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