裏千家流 茶の道(9)利休クリスチャン説

これは武者小路千家家元の某講演の論説を小生感性での纏め書出しです! 家元のこの説は昔に新聞での拝読をして驚いた記憶があります! またInet検索をすると、この説の発信もありますので、ご興味あれば拝読されては如何でしょうか! このクリスチャン説のみならず興味深い茶の説なので長々ですが、掲載です!
* 茶の湯とは、今は茶道と呼んで、この言葉ができたのは江戸も末期です! 利休の頃に「さどう」と言われた形跡はなく、必ず茶の湯という言葉です!お茶は13世紀鎌倉幕府の頃、中国宋から入ってきました、禅宗と一緒にです! 最初は禅宗寺院と禅宗に帰依した支配層の武家たちがお茶を飲んでいました、つまり鎌倉で! 栄西の導入ですが、実朝が政権の主で、将軍としては三代目でした! 武士がお茶を飲み、禅宗へ目を開かれる嚆矢になる、源氏も滅び後の北条氏も滅んで、次の足利氏が関東から、政治の中枢を京都へ戻して、京都で禅宗が始まるのです!
* 禅宗はそれまでの伝統仏教とは明らかに違います! 浄土宗などは、平安貴族たちが大変信じており、阿弥陀信仰というものです!阿弥陀に極楽浄土、西方浄土に案内を乞う、輪廻思想で願わくば次に生まれる時も貴族階級にと日夜礼拝をして、死ぬのが普通仏教でしたが、禅宗はそれをしません!  1時間-1時間半座り15分休み、また次へ座っていくのですが、その休みにお茶を飲み、その時師匠たちと話ができ、また次の座禅へと繰返し、その間に飲むお茶、交わす会話、それが茶会の原形です!
* 当時は身分社会で皆が対等に話し合うことはない訳です。禅宗だけは、師匠も弟子たちも、座禅では同じ平面に座り、平等に一碗のお茶を喫し、色々対話ができた訳です!
* やがて堺が大きく飛躍をします。それは偶然にもポルトガル人が種子島に来航しあの鉄砲を伝えたことによるのです! この鉄砲は、画期的な武器で、今で言えばもう核兵器みたいなものです! 堺がそれに成功し、戦国時代であり最新兵器は飛ぶように売れて、巨万の富を得ました!
* それに目を付けたのが信長で、彼が一番鉄砲を機能的に使い、堺の武器生産能力と富を物にしたいと、堺に食指を伸ばす! 最終的には信長が勝つ、でも回復には手間取る痛手も被るぞと堺はこれに反威力を見せる訳です! 信長も知恵者で、堺の商人たちを引きずり出すには、彼らが一杯の茶を飲みあれこれ言うのを、自分もやればと気付くのです! その為の大名家来、明智光秀、細川藤孝という鎌倉幕府創設以来の名門の家柄で、宮中の有職故実にも明るく、茶の湯とか、鎌倉文化にも非常に明るい大名を雇いました! 彼らが演出した茶会で、堺の商人たちを京都あたりへ呼ぶ訳だし、信長も堺の町に行きますが、茶会が名目で、演出が実は利休たちであった! 堺の商人たちが、茶会の演出で非常に上手くいって、信長に武器とあり余る資本を提供する訳です! 信長は天下統一を進めるのですが、明智光秀に弑され、その後飛び出してきたのが秀吉です!

* 秀吉は信長の戦略継承に過ぎず、堺の武器生産と資本は欲しく堺に食指を伸ばした訳です! 今までの武器商人たちに代わる、秀吉と親しい代表を立て交渉せねばならず、そこで飛び出してきたのが利休です! 信長の陣営では茶の湯は一流武将の証で、秀吉もやっとその末席になっていた訳です!利休の家は倉庫業をしており、商人たちの間では末席で、末席同士で仲が良かった訳です!堺の総意としては宗易が秀吉と仲良く、利休が堺の権益を代表して秀吉の陣営と当たる訳です!
* 秀吉の天下になると国を治めるために、荒くれ大名たちに行政的手腕を発揮させるようにする! 当時は教育を受けておりませんが、やはり文書も書き、字も読まねばならない、そこで教育方法として茶の湯を用いたのです! 彼らが茶の湯を始めて一人前になるまで、そんなに時間はかかっていないのです! 2、3年の間に清正や正則のような荒くれ大名も、ある程度字も読めるようになり、書くようになり、ましてや茶道具まで作るようになりました! 気持ちを内に鎮めるように、利休は演出をして秀吉に尽くしたのです!
* 典型的なのが実はお茶の飲み方で、普通の抹茶の最低5倍の濃さはあるお茶ですがおいしく甘いお茶です。一人ひとりに点て飲んでいたのを、5人ならいっぺんに点て、同じ茶碗から、しかも同じ飲み口から飲んでいくのです!日本人の食生活はすごく潔癖なので、ご夫婦でも恋人でもお箸箱がある、昔は箱膳と言って食器は絶対に他人の物を使わなかった! でも茶の湯の席で一碗の器の同じところから飲めと言う!
石田三成には、大谷刑部という大変有能な、ハンセン氏病でほとんど死に体の大名がおりました! 三成もお茶会をする、そして濃茶を点て刑部に飲ませる訳です、刑部は飲みますがハンセン氏病で、お茶碗の中にうみが落ちる訳です! それを三成は飲んで、刑部は痛く感激をして、負けは分かっても三成に付いたとか!
* これは利休が考え出したことで、利休が亡くなる2、3年前に、突然考え記録にも残る「一碗から飲めとおおせ候」でそのヒントは、カソリックのミサなのです!
近畿に布教で、高槻には高山右近というキリシタン大名がおり、彼の領地は99% カソリックです!京都にもあったし、堺はバテレンたちが最初に上がるところで、日常茶飯ミサがある訳です! 利休の家族も信じたという話もあるし、利休自身もその目でミサを見た! キリストの血であるブドウ酒を、カリスという器に入れ飲んでいく、それを神父が自分が飲み、そして周りに集まった信者に飲ませる。飲み回しをしていく儀式がミサの中にあるのです! 同時に、キリストの肉であるパンも口にしてあげる訳ですが、これがミサでは非常に大事な儀式で、おそらく利休はそれを見ていて、この手は使えると思ったのです!
バチカンの書庫は記録でぎっしりだと言いますが、利休がそうしたという記録があるようです!
濃茶をすると非常に一体感がある。そのように利休は演出を考えて、大名たちの心を一つにしようとした。今の茶の湯に残っている、いろいろな儀式のもとなのです。
* 400年以上たって時代も変わり、政治形態も変わるのですが、茶の湯は別世界を感じられる。4、5人の人間が一体感を持つことができ、世の中が大きく変化するにも関わらず、その方式が変わらないことは、儀式性が非常に強いのです!「市中の山居」と申しました。当時、京都は人口が 30 万近くと、ロンドンやパリがまだ15万か20万の時代に、世界的な大都会で、すごいストレスがあったはずです。この都の中で茶の湯をする四畳半の中だけは別世界、その代わり時間を限りふた時と言えば 4 時間くらい、その間だけは俗世間から離れるのです。「都の中の松の下庵」喧騒の町中へ戻ってきて、そして屋敷の中の松の下に四畳半くらいの庵を編んで、自分の別世界を作る。そういう習慣をするようになったら、憂さが晴れたというのが、「市中の山居」という考え方で、室町の後期から戦国の時代にかけて京都を中心に流行った。それが今の茶の湯の根本思想になっているのです。


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