裏千家流 茶の道(13) 光秀のお茶!

先に麒麟がくる! の宗久の台子茶につき掲載をしておりますが、今年初に茶友との交流をした光秀のお茶につき、以下思い起こしたものです! この再考での課題は光秀の宗久と宗及との関連なのですが、その解明は??

さて、今年2月の淡交誌に竹本千鶴氏著「茶人としての明智光秀」の記事があります! 拝読での興味点では、光秀のお茶歴を「宗及他会記」を中心に説いています!

* 先ずの興味は、光秀が辻玄哉と連歌の友であること! 紹鴎の一番弟子であり連歌師でもある玄哉との連歌会に同席をしている! 光秀で有名なのは、天正10年5月愛宕山での百韻連歌の催での発句で「ときは今あめが下しる五月哉」です!

* 津田宗及は良い仲間で十二会におよぶ光秀茶会の記録を残していること! 坂本城は安土城に次いで豪華絢爛だと目されていたとか!
城内の座敷の内には、六畳敷と三畳敷は炉が切ってある!  これは道具組や会の趣向で使い分けとかで、天正7年正月朝会に宗及を招き、六畳敷には炉に炭火ばかりで暖を取り、床に茶壷八重桜を一点飾りして、三畳敷には茶湯の準備で信長より拝領の八角釜を炉に釣って、肩付を霜夜天目の中に入れ金合子(建水)と手桶水指を組合せ!

喫茶後に肩付が四方盆に飾られたとのことで、これは宗及から贈られた肩付を光秀の重んじる茶入荘での点前なのかと!? また、炉に釣釜との記述ですが、では炉に五徳はいつ創案されたのでしょうか?(麒麟が来る②!で、道三の逆勝手台子炉の設定が見られ、炉切りでなく風炉への釜釣で何とも驚きの設定でした!)

* 六畳敷は、名物所持する貴人にふさわしいとの当時の考えで光秀も安土城天守にある六畳敷逆勝手に倣ったのであろう、三畳敷は、名物もない侘び数寄用と見なされていたが、利休の提唱によりこの差なく皆三畳敷か二畳半を用いるようになった、つまり狭く粗末な座敷に唐物を置く「藁屋に名馬を繋ぎたるが如し」という珠光の考えたアンバランスな美を表現したという !
こうした趣向は、利休が秀吉の茶頭としてゆるぎない地位を得てからのことと考えられているが、既に光秀が実践で、極めて重要である、作意を通り越して手柄とさえ言えるかも知れない、と説いていますが、如何か?
つまり光秀と利休が親しい間柄で、利休の功績と言われているものを考え直す必要があろうと!

* 光秀コレクション43点確認、内5点が信長より拝領、殆んど坂本城で焼失!

* 天正8年12月に筒井順慶、次客に宗及を迎えて口切の茶事をしている! 初座の床には水仙を生けた二重かぶらを飾り、炉には鍋釜を釣って、中立で花入れをさげ大徳寺開山の大燈国師の墨跡を掛けて、平高麗茶碗、盆や仕覆なしの肩付に茶を入れ、亀の蓋という水こぼしを用意 (釜の蓋は光秀が奈良で入手で客との雑談用の一品)! 食事前に茶壷「落葉」を持ちだして口切、食事中に水屋で茶葉を茶臼で挽きで粉末にしており、現代での口切茶事をしている!

昼は次の間でまた一会! 晩から夜には老臣の斎藤利三が光秀の道具で客人のもてなし! 翌朝も別の座敷で宗及の点前により茶会、その後光秀は自分のコレクションを拝見に供し、別れに宗及父子にお土産をだした! 

光秀の無類のもてなし好きと思えるとの評価ですが、そもそも口切の茶事は誰が初策でしょうか?

* 追論考: 茶友M氏の説
光秀は松永久秀の影響を強く受けている、三好家の家臣でありながら室町将軍家の御傍衆にまで出世し将軍御成りの時には接待役を何度もしているところは光秀の立場と重なります。 光秀は松永久秀からノウハウを得ていたのではないかと考えます。 茶の湯もしかり、久秀は松屋の紹鴎茶室を戦火から守るために解体、避難させているので利休以前の茶の湯の中心を業じていた人物であったと思われます。
信長は城作りや茶の湯で久秀を参考にしていたらしく、久秀の教えを乞うていた光秀が信長に重用されたのは自然な流れであったと思います。
様々な茶人の手柄を利休一人のものとしようとした又はしようとしている人もしくは団体があるのではないでしょうか?
辻玄哉の弟子であった利休が光秀から松永久秀の作為を学んでいた事は当然あると思います。
茶の湯に於ける利休は神話のヤマトタケルの様な存在と私は捉えています。
このM氏の説での小生勝手な仮説ですが、この説が正しければ、紹鴎ー久秀ー光秀ー利休へのお茶道が感じられますが、如何でしょうか?

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