裏千家流 茶の道(10)口切の茶事について!

いよいよ炉の季節が近づきましたが、茶友からの提示で先に掲載の宗保業躰書「茶の湯随想」に、後昔の話が出ていましたが、11月だけでなく口切の茶事をしても良いのでしょうか? 雪の降った後に口切したものが後昔と書いてあったのでお聞きしますと!  

小生には茶友のように茶事のできる環境でも体力でもないし、ましてや口切茶事の経験もありませんが、それが元来の茶事なので何時しても非難などはないのでは? との返信をしましたが、これには異論の方もおられるでしょうね!   

小生の認識では、茶壷から葉茶をだしてそれを抹茶にして呈茶をする茶事なので、客は嬉しく喜ばれるでしょう! でも葉茶の入手は簡単でなく、この点での苦労も大きいでしょう! 

圓能斎の時代で、家元では内口切してから使うのが初昔で、二度目の口切は初雪が降ってからでその後に使うのが後昔とかで、このように呼ぶのは宗保業躰の時代経験なのでは!?  

理はあることですが、小生の習った稽古では入日記に初昔・後昔との記載があって、いつもまあ初昔と求めたことでした! 

それに手持ちの大日本茶道学会の古書ですが、創設された仙樵居士の社中への講義録に次のような初昔・後昔の区別の説があります!

(要略のまとめ書です) 

* 濃茶薄茶は茶の木が違うのか?  濃茶の木は二十年を超えたもの、薄茶は三年目より製造ができる!   五月十日前後には茶の芽を摘み始める、この半月も前に茶園には覆いを張る! 薄茶に元はこの覆いはないが、近年技術進歩で薄茶にも苦みを消すためこの覆いする! 濃茶は立春より八十八夜に摘むを法とし、その前に摘むのが初昔、その後に摘むのが後昔(のちむかし)、昔とは二十一日という字を一字に詰めたもので、旧暦三月二十一日が大抵この八十八夜に当たる! 濃茶は上等、薄茶は粗末な茶として、濃茶を壺に詰めるのに、一袋「二十匁」半袋「十匁」、半袋x十六袋を一壺として、壺の大きさに合せ中央に袋を、その周囲に薄茶の葉を詰めるもの!  濃茶は玉露、薄茶は煎茶に相当する! 同品を手もみして細く撚ったものが玉露、葉のままが濃茶、煎茶と薄茶の区別も同様!  

また関連の興味ある居士の説ですが: 

* 濃茶の点て方! 濃茶は五客分を一碗にて点てる、この濃茶を飲み回す理由は?  1、湯量を多くし湯加減の冷めぬため  2、経済上、茶の茶碗に付着するロスを少なくするため  3、一人分点よりはその服加減が必ず美味なる事  4、共啜は懇親の間にてする作法で分け隔てのない交際を意味すること 昔は残余の茶に湯を加え亭主が相伴をしたことがあるが、これは戦国の風習として毒薬の混入なしを証する手段の意味もあったもの!  また、昔はこの一碗共啜りは無かったこと、今日でも貴人点は天目で一人分宛差上げます、この場合は少し濃茶を薄めに点てるので、中茶と称します!  昔は一人一匁(3.75g)ほど飲んだが、今はそれ程飲まず六七分、 婦人なれば五六分程で宜しい! 

* 茶銘と詰! 茶銘の初めは畠の名を付けたもの、綾の森、イの白などと云うのはその畠の地名や番号です、白と云うのは畠を二字に白田と分け上の字を使ったもので、後世になって「なにの白、かにの白」と種々の名が付いた! 茶の詰ということ、八十八夜に茶を摘み、壺に詰めておき十一月始めて口を切りとりだして茶を飲む、これが口切の茶事! この壺に濃茶を入れ薄茶の葉でその周囲を詰めるので、この詰の言葉が起った! 後にはこの詰の言葉が、末席を詰と呼ぶことになったが、これは茶を詰めた茶師が口切の折にその席に連なり壺の口を切る役を務めた、この意味から末席を茶師でなくとも詰と呼ぶものです! 昔は茶園主が茶師、他に詰と名の付くものは無かったが、今は茶師の名は隠れて発売店の名声が表れ、茶を売る店名を詰と呼ぶに至った! 

 以上です!

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