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家族として夫を巻き込んだら、夫の飯を食える機会が増えた
私は出会って9年目の夫と二人で暮らしている。どちらも一人っ子で割とマイペースだと思うが、性格はことごとく真逆。9割の確率で夫が思うことと正反対のことを思う。
そんな我々は、見かけ上も法律上も「夫婦」、「家族」という形で共に暮らしている。暇な時はさほど考えないのに、仕事で忙しくしているときに限って、ふと、どうでもいい疑問が湧く。人間してるとこんな事がよく起こると思うが、ご多分に漏れず私もよくあって、夫婦とか家族とかって一体なんなんだっけ、なんて疑問が不定期に浮かぶ。そして、わからなすぎて面倒になって放棄、疑問は解駆らぬまま消える。
分からない疑問をそのまま放棄できる点、我ながら、健全な日常を送れてるんじゃないかとは思う。
名前や住所などの汎ゆる項目が直線で仕切られた仰々しい紙にそれぞれの名前を記したあの日を境に、夫は私の夫で、私はその夫の妻になった。夫が私を妻にさせ、私は夫を夫にさせている。互いが互いの立場の証明になるという、不思議な状況下にある。
更には、それぞれに母と父も存在している。いままではその母と父との三人で家族をやっていたはずだったが、いつのまにやら夫と二人で家族をやっているのもなんだか妙で、若干の面白さが漂ってる。
人間にとっては当たり前のこの家族という仕組みは、当たり前過ぎる故に、よくよく考えたらかなり奇妙だと思う。
まあしかし、自分から結婚を迫った割に、夫婦だとか、家族だとかいう実感があまりない。
強烈な結婚願望があったというよりは、結婚してみてもいいかもしれないという至極ラフな感情で夫に求婚したのだが、そんな夫も多分まあやってみるかというノリで、我々は結婚のことをケッコンだと思ったまま、赤口の日の12:00頃に籍を入れたのだった。
ケッコンした夫婦のケッコン生活
感情コントロール機能が不能になる周期が、不定期でやってくる。これは私という人間特有のものなのか、皆もそうなのか。後天的なのか、先天的なのか。
感情に多大な影響を及ぼすとされている生理は、薬で止めているので、もう3年も来ていない。ちなみに私の生理は、感情が不安定になるより、ひたすら腹が痛むタイプのものだったので、逆に生理が来ていたほうが痛みで感情を出す余裕がなく、夫にとっては良かってかもしれない。だが、あの痛みに再び牛耳られるのは御免である。
生理があった頃は「痛み」という具体的な敵と戦っていたが、今は見えない何かと戦い続けている気がする。もちろん生理以外の体調不良はあるのだが、劇的でない分、感情に波が生まれるようになった。
夫はもともと赤の他人なので、暮らしているとやっぱり日々つっかかりはある。身体に蓄積されたそれらは放出しない限り、体積を増やしてゆく一方。なにかきっかけさえあれば直ぐにでも体外に出てゆけるくらいに準備が整えば、感情のちょっとやそっとの波で、ぐらっときて大崩壊する。
毎年貯金できない問題
今年こそ貯金しようって毎年言ってるよね。
夫の身体は、年が明けると「今年こそ貯金しよう」というセリフを口にするようにプログラムされている。ご多分に漏れることなく今年も執り行われ、昨年も貯められなかったことに対してチクりと刺して放出する。
洗濯物隅々まで洗えない問題
Tシャツとか靴下をくしゃくしゃのまま洗濯機に入れると洗えない部分ができて汚くない?しかも干すの面倒じゃない?自分で干してみたら分かりそう、どう思う?
多分、夫は平均より繊細な心をもっている。一方で妻は平均より攻撃力が高い。繊細な心を壊さず、それでもって響くよう、夫の防御力に合わせたたたみかけで、放出。
ティッシュ入ったままズボン洗っちゃう問題
またティッシュが、、、!ちゃんとポケット見てから入れてね。
洗濯関係でもう一つ。年に2回はある、忘れた頃に必ずやってくる、ティッシュを洗濯しちゃって洗濯物がティッシュまみれになる問題。ただし、私の可能性も20%あるので、そこまで強気に出れない問題。放出しつつ、背筋も伸ばす。
予算無頓着問題
冷蔵庫に何が残ってるかなんてなにも知らないでしょう、毎月、この予算でやるには週にいくら使るとか、こういうのは我慢しなきゃいけないとか、外食は☓回までしかだめとか、そういうのも知らないで気軽に外食したいなんて言わないでよ。
これは、直近で大規模な放出が成された時の話。
夫はお金にだらしない。私も結婚前まではリボ地獄に陥って200万の赤字を背負うほどのやり手ではあるが、既に改心済み、足を洗っている。
詳しく書けないが、夫は少しずつ成長してはいるものの、なかなかスムーズにはいかないのが現状である。
予算を計算したうえで外食を我慢しようと決めていた日に、「今日は(回転)寿司?」などと、はじめから外食しか頭にないような発言が夫から繰り出され、我慢に我慢で上塗りしてゆき、押し込められた靄が、派手に無残なまでに飛び散り、夫に盛大に飛沫した。
これらの問題は、人様に見せられるよう、円やかに、マイルド仕立てにしてお送りしているのだが、実際にはどんな温度感で口にしたかも覚えてないほどの激昂具合だったかもしれないことだけは記しておこう。
まあいずれの問題も、予防策を考えてこなかった私にも責任がある。
例えば、洗濯関連の問題。洗濯機の近くにティッシュ厳禁!洗濯物くしゃくしゃ厳禁!などと啓発ポスターを貼ることで少しは予防できる。
予算無沈着問題においては、冷蔵庫の中身や予算事情を夫婦間で認知できる仕組みづくりをすればいい話である。だいたいこの予算問題は、もっと家事に夫を巻き込むべきであり、一人で勝手になんでもやろうとして、自分でパンクしているだけであったりする。
夫に対して、夫であり、家族であるという認識が薄いことが根本的な原因なのかもしれない。
私の怒りは、他でもない私が産み出した、生産性のないこの世に必要のないものだ。この世の大体のことは、怒っても仕方がない。とくに対人において。
怒りの根源を取り除くためにできることはないかを探す、事前に蒔ける種は蒔けるだけ蒔いておく。
これが、もともとは赤の他人だった人間とケッコンして、夫婦としてともに暮らしていく上で、すごく大事なことだと思う。
夫に台所に立ってもらう
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キャベツの付け合せなんかめちゃくちゃ美味い。
あの大放出を機に、夫は週1日、夜ご飯を作ってくれるようになった。夫は見るからにいろいろやれなそうな不器用な顔をしているのだが、やれば結構できるという、たまらなく嬉しいギャップを持っている。
いまやほとんどのレシピはネットに載っている時代、夫はスマホ片手に、たまに料理を振る舞ってくれていた。しかし、最近はなぜだか私がずっと台所に立ち続けていた。私がぜんぶやらなきゃ、などと一人で勝手に背負ってしまっていた。
そこで、夫にご飯を作ってもらう日を設けることにしたのだ。夫のことを、家族として、夫として巻き込んでみた。夫は快諾してくれた。
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卵は結局割るのだから、最初から割れてるくらいで丁度良い。
夫のことはもっと頼って良いのかもしれない。しかしそのあたりの加減が、一人っ子だからかなかなか難しい。一人っ子という言い訳をさらっと挟んだことを即後悔したのは、夫も一人っ子であるからだ。夫はちゃんと頼れる人、私が単純に下手くそなだけなのだ。
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これも卵に夫の色がでている。
夫が台所に立つことは、冷蔵庫にあるものを把握してもらえる利点もある。もっと日数を増やしてもいいのだが、私自身も料理をすることがストレス発散に繋がっているために、週5台所に立たれてしまうと発散どころがなくなってしまう。一旦は、週1でやってみることになった。
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ニラが残りわずかだった状態で編み出された夫のレバニラには、
ピーマンが入ってた。
私だったらえのきを入れてしまう。
私の頭にない発想に、夫、いいぞと思った。
18歳で家を出て自炊するようになってから、自分ではない誰かがつくるご飯を食べることに、ようやく心から感謝できるようになった。それまでは、どこかでご飯を食べれることを当たり前だと思っていた自分がいたのだ。結構恥ずかしい人間だと思う。
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自分で作ると、何が入ってるか明確に分かるから
そこまでワクワクしないけど、
人が作ったルウのカレーは変にワクワクする。
夫の腕前やらネットの力やら調味料の魔力やら、様々なことが相まったのか、久しぶりに食べた夫の料理はすごく美味しくて、誇張なしに幸せだった。
トイレを掃除してもらったり、買い物で重いものを持ってもらったり、今回のようにご飯を作ってもらったりするうちに、ふと、結婚しているんだなあと実感できる瞬間を自覚できるようになってきた。
ケッコンがようやく結婚になってきたという今年は、結婚してから4年目の、花婚式らしい。どこまでこの生活が続くかなんて分からないし、体調悪すぎていつまで生きれるかも分からないけど、些細な感情に気づかぬふりをせず、正直にいたいなと思う。あとは毎日じゃなくていいから、夫の飯を食べていたいなとも思う。
ちゃんと家族の一員として夫を生活に巻き込んだら、夫の飯を食べる機会が増えたことが、結構嬉しい。
まさに、こういうことが、私たちなりの家族の形を模索して編む過程の一環なのかもしれない。家族とか夫婦に定義なんかなくて、多分、作っていくものなのだ。
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