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Dojo運営のために保育士の資格をとってみた…の詳細

本記事は「CoderDojo Advent Calendar 2022」12月5日分の記事である(結局また遅刻…)。

以下、去る11月27日開催の DojoCon Japan 2022 の交流会のLT企画で話した内容を、詳細やら余談やらを加えつつ書く。
(ちなみに見出し画像はスタンプラリーでシールをGETしたときのもの)

すごくザックリとした要約

CoderDojoやらなんやらに関わっていたら「もっと体系的に子供の関わり方について知りたい。合理的配慮等の実情や事例を知って対応力を高めたい」と思うようになった。
色々ありつつ「保育士」の資格を取った。4年半かかった。
現状、保育士の資格それ自体を役立てる予定はないが、継続的に勉強しながら実践の質を向上させていきたい所存。
せっかくなので若者の安全保護についてDojo関係者と意見交換もしたい。

プロローグ

2022年10月13日付で保育士としての登録が完了し、晴れて「保育士」を自称できるようになった。
保育士とは名称独占資格で、 CoderDojo と同じく許可が無いとその名称を使うことができない(注: CoderDojo は登録商標)。

きっかけのきっかけ

保育士資格の概要や、それの取得体験談自体は別記事「4年半かけて保育士試験を受けた話(前編)」に譲る。

そもそも何故保育士資格を取ろうとしたのかと言えば、元を正せば子供との適切な関わり方が分からなくて困っていたからだ。

「子供との適切な関わり方」とは文字通りの意味だ。
プログラミング道場をやっていると何故だか全ての話を職業ソフトウエアエンジニアの専門技能の習得の話に強引に結びつけられがちで、先の文も例えば「如何にして勉強をする気のない高校生や専門学校生のモチベーションを上げて専門技能を習得してもらうか」という話に謎変換されることもあるが、そんな話だとは一言も言っていない。

私が特に困っているのは、総合的学力が学年相応あるいはそれ以下の小学3年以下の子、個別に何かしらの配慮が必要な8〜14歳前後の子、そしてそれらの保護者との関わり方だ。

私自身と子供とのコミュニケーション、子供と子供の橋渡しのためのコミュニケーションやその環境デザイン、その子供の保護者とのコミュニケーションなどなど。
どれもこれも、やればやるほど色々発生するので分からなくなった。

2017年当時、私は CoderDojo や当時働いていたプログラミング教室(数社と業務委託)で、子供(や保護者)との関わり方に悩んでいた。
CoderDojo の活動に限定した当時の懊悩の詳細は過去記事「とが、「活動の実践とその省察」を書く」で公開しているPDFの実践記録を参照されたし。

それは、必ずしも本質的な意味での「本人のやる気」の問題ではない。
まず、参加者の年齢が平均的に低い。一時期はほとんど全員小2だった。
もちろん小2でもコードは書ける。確かに書けなくはない。でも小2である。超初心者の。よくよく話を聞くと、いまひとつプログラミングのプの字も分かっていない。パソコンを触ったことがない・持っていない子もいる。
尚且つ下の子(2〜5歳)の同伴も多かった。当然保護者は下の子の見守りで手一杯である。
そして初歩的なパソコン操作ができないし、覚える気も無い。やってとゴネる。保護者も「小さい子がそんなことできるわけがないでしょう」と胸を張る(現市長も以前のタウンミーティングで小1の我が子は電源ON/OFFできませんよと笑って言ってた)。教えて教えてとやかましい。何をすれば良いのか分からないとポカーンとする。しばらくすると「次は何をすればいいの?」と言い出す。本に書いてある文字を読まない。暴れる。泣く。

2016年2月10日の開催報告より。とにかく小2の子が多かった)
2016年7月27日の開催報告より。参加者どうしを交流させるのが激ムズでマイクラマルチ)

そんな中で遊びに来た別Dojoのメンターさんから「学童保育みたい」と言われ「学童保育 is 何」となり、学童保育(/放課後児童クラブ/学童クラブ)の存在を知る
独身子なしで鍵っ子世代の昭和の小学生、そんなモノ知らぬ…。

学童クラブ事業とは、児童福祉法第6条の3第2項の規定に基づき、保護者が労働等により昼間家庭にいない都内小学校に就学している児童に対し、授業の終了後等に児童館等を利用して適切な遊び及び生活の場を与えて、その健全な育成を図る事業です。

学童クラブ事業(放課後児童健全育成事業)とは | 東京都福祉保健局

学童保育を知ってちょっと賢くなった気でいたのも束の間、申し込み時点で2、3人に1人くらいの頻度で「ADHDグレーです」「ASD診断済です」「軽度の自閉症で不登校です」などと補足の連絡が入る(ちなみにADHDよりもASDですという連絡の方が多い)。
「………私、『発達障害の子供に対応できます』なんて標榜したっけ?」と首を傾げる頻度。
発達障害、名前や概要は知っているけど「実際にどういう状態なのか」が丸で分からない(実際の対応としては、その都度保護者に尋ねて個別対応)。

申し込み時には特段の申告がなかったものの暫く観察していると「おや…?」となる児童もいた。保護者は言う「知能はそこんじょらの子よりもずっと高いんです。知能は高いんです…知能は…」と。
中には「SSW(スクールソーシャルワーカー)から紹介を受けてきました」「子育て支援課から…」「特別支援級の先生から…」等のケースもあった。
営業・宣伝を一切していないのに、何がどうして。
担当者がどこかで調べて知って下さったのはありがたいものの、此方に一体何を期待しているのかが不明なケースが多く、中々困惑した。

そして、こうしてやって来た子供たちに趣旨を伝えるところでつまずくケースが多い。「日常会話レベルのほんの初歩的な意思疎通が成立しない」というレベルの意味で。
そういう場合は「本人はここで過ごす中で少しずつ気付いてもらって、それで自己判断してもらえたら…」ということでひとまず保護者に説明する。
だがしかし「保護者だって決して怠けているわけではないけど、どうしていいのかが分からない」ケースもある。
(なお、2022年現在も相変わらず手探りでやっている。「前よりは慣れた」けれど一体何が正解なのかが本当に分からない…)

結果「素人の私が一人で対応するには限界ってものが…いまの自分にできることは何…何が足りないの…何を改善すれば良いの…何もかも全くわからん…ツラ…」が続く。

学童クラブの臨時職員をする

悶々と過ごしていたある日、市報で求人を見つけた。

市報こだいら 2017年5月5日号2面

それにしても衝撃だった。
現場に入るまで「眼鏡使用はやや注意を要する仕事」だとは…。
詳細については過去記事「とが、学童保育のバイトで即クビになる」を参照されたし。

児童たちから一方的に全力の暴力を振るわれっぱなしなのよ…結構痛いのよ…

業務の面では暗黙知が多く「常識と言われましても…」の気持ち。
それで困っていたら、指導員からある日ポソッと「どんなときでも丁寧な言葉遣いを心がけること」との指導を受けた。

今にして思えば、指導員的には臨時職員に対して多くは求めていなくて、児童と関わってくれる現場の大人が増えてくれることと、そのとき丁寧な言葉を使うだけで本当に良かったのかも知れない。
何年経っても正解が見えない。

そんな訳で修行のために学童クラブに行って、ますます道が見えなくなった次第。

専門家以外は教育について語ってはならない…?🤔

迷走を続けて早ン年の2018年のある日、何人もの人を立派なエンジニアに育てたというベテランのDojo関係者に子供の総合的な関わり方について悩みを相談というか愚痴を漏らした。
その時「我々は教育について語ってはならない。教育について語って良いのは教育の専門家のみだ」とハッキリと言われた。

我々…?
そもそも私と貴方は同類なのだろうか?
私は貴方のように幾つもの学位を持っていない。
立派な学歴もなければ技術や他分野でめざましい成果を出したことはない。
「我々」とは一体誰だ…?

教育のことは教育の専門家しか語ってはならないし仮に知ろうとが実践することも許されないとするならば、学校以外の場所ではどうしたら良いんだ?
家庭での教育はどうしたら良いんだ?
結婚して子育てする人は皆、教育の学位を取らないといけないのか?
家庭とは、愛玩動物に行うような躾の訓練のみをするところであり、教育の入る余地がないのか?
地域社会で人を育てるのは「教育」ではないのか?
そもそも貴方の言う「教育」とは何だ?
中流階級以上の選ばれた人だけが受けられる何かの話?
一体何の話をしているの?
じゃあ、もっと前の段階の困りごとが溢れている人や中流階級になれない人たちはどうすれば良いの?

得も言われぬ不快感と苛立ちと共に「何が何でも保育士をとってやる」と決意を新たにした。

体系的な知識を求めて

そういったことで、「受かるまで」保育士試験に挑戦した。

試験はあくまで知識の確認だ。実践が全然足りていない。
保育の実践ではなく子供と関わること全般の実践が。
何も分からない・閃かない・できないからこそ「掴める藁を欲しさに」並行して色々と受講したり受験したりした。

これらの個別の話も、いつか気が向いたらまとめようと思う。

勉強して良かったこと

  1. ヒトの発達について広く学ぶ機会になった

  2. 子どもの権利を守るための法令や制度の存在を知った

  3. 「対人援助」という概念を知ることができた

  4. 生まれてから現在までの自己の総点検になった

①ヒトの発達について広く学ぶ機会になった

正直、ちょっと勉強しただけで目からウロコだらけだった。
「そういうの、もっと早く知りたかった!!」の気持ち。

何より保育の「遊び中心の教育」というのは CoderDojo の「堅苦しくなく、創造的で、社会的な環境の中で、若者がテクノロジーを探求できる場所」というコンセプトにも大いに連動する考え方だ。
「遊び中心」という考え方は、近年「ライフロング・キンダーガーテン創造的思考力を育む4つの原則」(M.レズニック、他/日経BP/2018)の4つのPの内の Play だよと紹介している人もいるので存外認知されているやも知れぬが、それでも座学に慣れた後のその考え方は中々新鮮かと。

保育士の仕事のひとつに「児童の保護者に対する保育に関する指導」がある。「指導」とあるので「何か軍隊式訓練でもおっぱじまるのか!?」と謎妄想をしかけるが、例えば保護者自身が社会に孤立しない支援を行うことなどがそれにあたる(最近他県から転居したお宅の子の様子がおかしいぞ!虐待か!?お母さん育児ノイローゼ?大丈夫?みたいな事例問答が必ず出てくる)。
ところで最近、「場所」に着目した「サードプレイス」の他に、「関係性」に着目した「ナナメの関係」という言葉をしばしば聞く。
地域社会と子供との関係性。CoderDojo にやってくるボランティアと子供たちとの関係性がまさにそれだ。
それから、子供たちが CoderDojo で過ごす時間は短いし、そこでできることは限られている。それでも、参加した後に家庭や学校Dojo以外の地域社会の中での生活がほんの少し豊かになるような「お手伝い」はできないのだろうか、と改めて考える。
そもそも本質的には家庭という地盤があってこそ。だから、やはり、子供を支える保護者の支援を。じわりじわりと後で効く支援を行う必要があるのだろうな、と改めて思った。
現状、具体的な案が思い浮かばないので、そこは追々。

それから、合理的配慮および発達障害で様々な支援が必要な子供の関わり方は相変わらず「分かるようで分からない」どまりだった。
現場対応と並行しながらひたすら事例を勉強するしかないかな、と。

あと、児童の個々の発達に合わせて日々臨機応変に環境調整する児童福祉施設の職員や小学校の先生、本当にすごいなと思った。マジ神。

②子どもの権利を守るための法令や制度の存在を知った

うっすらと法令の存在を知っていたものの、試験にも出てくる主なものだけでもこんなにあるのかとたまげた。
(真面目にDB作ると100以上出てきてヒエッとなる。これ、施行日の順序を聞いたりしてくるんだぜ…引っかけでマイナーなヤツ混ざってたりさぁ…)
専門家、別に経験と勘だけに頼ってないですよねえ。基本、現場の運営方針にそいつつ法令遵守してますよねえ。そうですよねえ…。

児童福祉法の第1条にも記述のある「児童の権利に関する条約」とは国連で規定して1994年に批准している、とか。
この「児童の最善の利益」を大人一人一人が考えないといけないことだろうに、そもそも「児童の最善の利益」なんて感覚が自分になかったなあ、と。
そういう意味では、改めて CoderDojo も「児童の最善の利益」を追求しないとだよねえ。何をすれば「児童の最善の利益」なんだろうなぁ本当に。

それから、これまで福祉系や生涯学習系の活動をしている方々に「そういう活動だったらこういうところにチラシ置いてもらえば良いんですよ」とチラホラとアドバイスをいただいていた、その施設の所在地と主な機能のことをようやくある程度知ることができた。
その施設、AさんやBさん etc. がお世話になったって言ってたな。そういうおとか。おお。…と。

③「対人援助」という概念を知ることができた

社会福祉関係でもおなじみの「バイスティックの7原則」や「ケースワークのプロセス」を知ったときは中々目からウロコだった。

ケースワークの最初の一歩となるアウトリーチだと話が出て安心したというか何というか。
アウトリーチは「此方から相手のところに潜在的ニーズを拾う」とことで、「Dojoの活動だと相手の席などに行ってちょっと雑談する」がそれに当たるだろう。
これまで「プログラミング道場に来る人は集中して作業したいものだから、一人でいたいのが普通。話しかけてはいけない」と力説する人をチラホラ見かけたけど、全員が全員そういう人ばかりじゃないから話しかけても良いよね。ダメだったらダメって言うよね?もし言わなかったらその「潜在的ニーズ」を拾えって話だよね?私、おかしいことしてないよね!?と、ホッとした。

私がアウトリーチ活動が大切だと思っていたのは「静かに溺れている人」の存在があるからだ。物理的に静かかどうかはともかく、困っていることが端から見えにくい人はいる。自分はそれを見落とさずに拾うことができているのだろうか。拾った先でどのように行動するのが適切なのだろうか。いつも悶々としている。

他のDojoや部外者の人たちで、なんでも「自己責任」論で片付けてしまう人がいる。まだまだ全然、自分を上手くコントロールできていないのに、そういう人が自分のやる気をコントロールできないのは「自己責任」で、成果を出していないからダメ、と切り捨てるべきなのか?それは正しい対応なのか?
「ability (能力(障がい等))に関係なく歓迎」を謳うCoderDojo 憲章的に適切な行動なのか?

引用元 https://coderdojo.jp/charter

アウトリーチに限らず、プロセスの理論自体が、困っている人の支援に於いてどのような行動が足りていないのかという点検に役立った。

④生まれてから現在までの自己の総点検になった

保育士試験だけではなく「体系的な知識を求めて」の項で受講した講座や研修での学びからの気付きなのだけど。

物心ついた頃から自分の常識観がズレている自覚はあったけど、具体的かつ客観的に評価する手段がなかった(というか分からなかった)。

それで今までまるで知るよしもなかった、おそらく他人にとって極々当たり前のことを、とても新鮮な感覚で知ることができた。
その上で「他人に対して、もっとこんな風に関わって良いんだ」と感じることも増えてきた。
「そういうことなら、他人との関わり方について、他にも色々とやりようがあるんじゃないか」と考えるようになった。自己認知の変化によって周囲との関わり方も多少変わるものと実感した。

[番外] 専門家以外は教育について語ってはならない件

勉強して良かったことというか受かって良かったことというか。
「何かあるとすぐああいう物言いをするのって、格下認定した人に対するアカハラなんだろうなぁ。その人の職業病みたいなもんなのかもなぁ。まあ自分とは関係のない世界の住人だし、放っておこう」という感想。

さいごに…チャイルド・セーフガードのこと

保育士資格を持っているDojo関係者は私の他にもいる。現在受験中の人もいる。だから「さあ、みなさんも是非!!」…とは思っていない。
受験料が安くないし、勉強に少なからず時間を取られるし。

それはさておき、 CoderDojo 財団(および Raspberry Pi 財団)が若者が安全な環境で学習できるように、ボランティアの皆さんも安全対策に取り組みましょう、講習を受けましょうと言っている。
それがこれ、Raspberry Pi 財団が提供するリソースのひとつ「チャイルド・セーフガード(Safeguarding module)」だ。

アクセス方法: coderdojo.comトップ> Safeguarding(安全対策)> Training for volunteers

チャイルド・セーフガードの1ページ目には安全保護の重要性についての記述がある。

なぜ子どもの保護が重要なのか?

ラズベリーパイ財団が運営・支援するすべてのプログラムは、常に誰にとっても安全な空間であるべきです。 安全な環境を維持することで、若者を成長させ、完全に気ままにコーディングを学ばせることができるのです。

クラブには、さまざまな学校、背景、年齢の若者が参加することができます。 したがって、若者が新しい友人を作り、共通の関心を持つことができるように、この安全な空間を確実に保護することが極めて重要なのです。

"What is child safeguarding?" | Raspberry Pi Foundation

日本の CoderDojo 界隈では現在までに「CoderDojo は公園のようなプログラミングを楽しむコミュニティ」という言葉が広まっている。
財団の話から逆算すると、それは安全保護が先立っての上での話だ。
安全保護なくして誰でも気軽に参加できる場所を作ることは難しい。

【トリビア】 スライド「CoderDojo へようこそ<一般・ボランティア向け資料>」中の「公園のような…」のおおもとは「DojoBudokai 2017」でCoderDojo広島(現・紙屋町)の鼠家さんが言及していた話です。というか依頼があって原文ママで引用してます。詳しくは当該スライドを参照。

チャイルド・セーフガードは古参のDojo関係者は読んでいない人の方が多いだろうし、情報共有&茶話会がてらに有志のDojo関係者で特に11ページ目の「観察・評価テスト(That’s almost it)」などを使ったグループワークをやってみたら面白そうと思った。

後日談になるが、YouTubeでDojoCon 2022のセッションのアーカイブを見ていたら「CoderDojo たまち」の澤さんが財団の審査を受ける前に当講習を受けなければならない旨を言及していたことを知った🤣(澤さんのスライドはコチラ)。
いま新規立ち上げする時は必須だったとは😅💦

本編動画の 3:08:33 あたりで言及

個人の小規模運営の都合上、予算や会場の都合などで少なからず特定の参加者や参加希望者に対してどうしても対応できないケースがある。
しかし、単発の合同イベントなど皆で集まればそれらが実現できることもある。こんなときに同じ「CoderDojo」という共通の名前を掲げてやっている仲間がいることの良さを感じる。
とはいえ、運営者を含む参加者それぞれが CoderDojo を通じて目指すところは必ずしも同じではないし、小さな単発イベントひとつにしても同じゴールを見ているとは限らない。安全保護に対する考え方もまた然り。

そうやって見ているところが少しずつ違うからこそ、「安全保護って何だろうね」という根本的なところも含めて茶話会がてらに情報共有したり意見交換するなどできると良いのかなと思ったりする。
(…といいつつ、意見交換は高度な専門家の人やスゴク熱い人たちに気圧されて全然無理かも、とやる前から怖じ気ついている…😅)

そうして互いの違いを認識しつつ共存の道を探ったり自分自身の研鑽の糧になるものを取り込んだりして「精神的に安心してより良く暮らせる状況」を構築していくことが、私個人が直近で望むものなのかも知れない。
この頃は心の余裕もできてきたし、改めてこれから少しずつ何かできることを探っていけたらというところ。

以上。


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