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世界とは何か


 世界とは何だろう。誰もが一度は考える問いだ。私たちの周りには見渡す限り「物」がある。それでは何故、「物」などがあるのだろうか。つまり、「ある」とは一体なんであろうか。この「ある」ことはどうやって確かめられるのだろうか。

「物」の存在を確かめる

 私たちは「物」を手で触ることで、そこに「物」があることを確認する。もしくは「物」を見ることで物がそこにあることを確認する。そうやって私たちは「物」が実在していることを確信する。 「物」を触り、「物」の存在を確かめ、一方で「物」の存在は、私がそれを触る、触らないに限らずそこに実在する。そして私たちは普通こう考えるだろう、少なくとも私が見ているこの世界は実在する。しかし、20世紀の初頭からこのような素朴な実在論の雲行きが怪しくなってきた。量子論の登場である。

古典物理学

 通常、私たちの目に見える物は古典物理学と呼ばれる運動法則に従って運動している。そこでの世界は物の位置と運動量が確定しており、ニュートン力学に従って「物」は位置と運動量を変化させていく。そこではすべての「物」がはっきりと見えている。すべての観測される量はこれら位置と運動量から作られた一種の関数として観測される。つまり、そこではやはり私たちは、「物」を触り、「物」の存在を確かめ、一方で、「物」の存在は私がそれを触る、触らないに限らずにそこに実在している。世界はそうした実在する「物」たちが構成する実在である。

量子物理学

 私たちは目に見えていた「物」達はそれよりミクロな「物」、原子によって構成されている。原子はさらに原子核のようなミクロな物から構成される。そして、これらの物達が従う物理法則はニュートン力学ではない。それは量子力学と呼ばれた。私たちの知っていた、触れて、見ていたこの世界(古典物理学の世界)は実はそう見えていただけで、実際には、より細かな「物」による量子力学に従う量子物理の世界が背後にあったのだった。

量子物理学で「物」の存在を確かめるには

 量子力学において、すべての「物」はもはやはっきりとはしていない。そこでは観測という行為が重要になってくる。位置や運動量は観測しなければ私たちが知ることのできないものであり、観測して得られる物理量は観測量と呼ばれる。そして、ある「物」を観測したとして、その「物」が観測前にあるような状態には、観測後もあるとは限らないということを量子力学の法則は示している。

 つまり、私たちが素朴に信じたい、「物」があるということは、それを触って、それがあると感じ、一方で、それが触っても触らなくとも変わらず、あるという事で、「物」の実在を確信するわけにはいかないということである。つまり、あらゆる「物」の実在は疑われる。そうして、それら実在の疑われた「物」から構成されるこの世界の実在とは一体何だろう。

 ここで次のように主張する事はできるだろう。あらゆる「物」はちゃんと実在しているが、微細な「物」があまりにも小さいから、私たちが触る(観測する)ことで「物」が撹乱を受けて、触る前の状態でなくなってしまう、ただそれだけの事だ。「物」は観測しようとしないと位置や運動量と物理量は実在しているという主張である。これを素朴な実在論と呼ぼう。そして、この素朴な実在論をともかく信じて量子力学の法則を吟味してみると、この素朴と思われる論を堅持するが故に、世界の非局所性という奇妙な性質が要請される。つまり、「物」の実在を信じることから、世界の全体性という帰結が導かれるのである。

 ここでは、この世界について何かを考えたい人に対して、物理学の知識を仮定せずに、古典物理学、そして量子物理学の知見を数式を交えて紹介したいと思う。そうして量子物理学が描き出す世界像をもとに、改めてこの世界とは何か、現時点で言えることは何かについて考えてみたい。


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