能登半島地震を受けて

先日の能登での地震を受けて、自分の考えが変わった部分があるので、簡単に残しておく。読みやすさを意識していない点、ご了承ください。

私は現在、(実態はともかく)東北の復興支援ボランティアを銘打つサークルで活動している。そのきっかけはもちろん、先の東日本大震災にある。

東日本大震災は未曾有の大災害であったため、復興には長い時間を費やした。

その数年単位という時間の中で、行政の政策により、あるいはその他の外部環境によって、苦しむ人が多く生まれた。原発周辺の避難指示の扱いがその代表例といえる。これらの問題は最悪の場合、災害関連死や自殺といった、絶対に避けなければいけない重い結果に結びついていた。

私の関心は常にそこにあった。大災害を生き延びた人が、支援金の打ち切りや避難先でのいじめ、街の変化によって受ける苦しみは、決して自然の不可抗力によるものではなく、人が生み出した、防げるはずのものだった。次の震災では同じことを起こしてはいけない。こうした思いが、復興が進む中でも被災地に関わる原動力になっている。

他方、地震発生時にどう命を守るか、発生直後に被災者をどう助けるか。こうした防災については従前あまり関心がなかった。

ところが今般の地震では多くの犠牲者が生じ、テレビ等では連日苦しむ被災者の様子が報道されている。それらを見て、今更ながら気づかされる点があった。

まず、今回の災害は未曾有ではない。東日本大震災は未曾有の大災害だったが、能登で起きたような地震は各地で頻繁に起こり得る。その度に数百人規模の犠牲者を出し、それ以上の数の人々が物資の不足等で苦しい思いをするというのは、果たしてそれでこの国はやっていけるのかという、見方によってはどうしようもない問題意識を持った。

加えて私に刺さったのは、未だボランティアが被災地に入れる見込みが経ってないという事実である。

ボランティアが活動するには万全な受け入れ体制が必要ということはサークルの活動を通して強く認識していた。今回の地震では主に道路の寸断によって被災地に入れる人員が制限され、私たち一般市民は、被災者の支援を消防士や自衛官、行政や一部企業に委ねるしかない。私たちは寄付をすることしかできない。曲がりなりにも被災地でボランティアをしている身として、草の根の活動はいざという時にここまで役に立たないものなのかと、無力感を味わっている。

さて、私はどうするべきだろう。答えは見つからないが、これまで私が関心を向けてこなかった防災について、より深く知るべきなのかもしれない。自然災害によってこれだけで多くの犠牲を生みながら(その上に)成り立つ経済・社会は脆いと常に感じている。そろそろ私も自分の進路を決める時期に来ているが、やはり救える人が一人でも多く救われる、そういう世の中になってほしいし、していきたいと思っている。

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