いじめを見て見ぬふりをする人は、いじめをする人と同じなのか

「いじめを見て見ぬふりをする人も、いじめをする人と同じ」

小学生の頃、よく言われた。私はずっと疑問に思っていた。
「全員がいじめを見て見ぬふりをする人でも、いじめる人がいなければ、いじめは起こらない。なのになぜ、いじめる人と同じにされるのか。」

最近、このことを思い出す出来事があった。以前『確実な知識』でも書いた、ガザで起きていることについて行動している元同級生の発信だ。彼女はデモやイベントに参加する以外にも、SNSで頻繁に発信している。その中で、次のようなことを言っていた。
「あなたの沈黙がパレスチナを殺す。」
小学生の頃の記憶が再び思い出された。

私の沈黙がパレスチナを殺すかどうかは一旦脇に置いておこう。まず、彼女は私たちに何を求めているのだろうか。
パレスチナへの援助に協力すること、イスラエル関連企業の製品やサービスをボイコットすること。彼女のようにこの問題をより多くの人へ伝え広めることも求められているのかもしれない。

それらは決して、不作為で自然にできることではない。募金をすることにも、マックやスタバに行かないことにも、SNSに投稿することにも、強い意思とエネルギーが要る。

人間が社会課題へ傾けられるエネルギーには限度があると私は思う。他方で残念ながら社会課題はこの世界に多数存在する。ガザで苦しんでいる人以外にも、貧困で苦しんでいる人もいれば、災害で苦しんでいる人もいる。それらの課題を克服する価値に優劣はない一方で、一人の人間が関心を向け、行動できる分野は限られる。(※)

そんな状況下で彼女は、人々の関心とエネルギーをガザに向けさせるために、精一杯努力しているはずだ。その努力の中で「あなたの沈黙がパレスチナを殺す」という言葉を使ったのかもしれない。

私の沈黙はパレスチナを殺すのだろうか。ある意味では正しいが、ある意味では正しくないだろう。イスラエルの行動があって初めて、パレスチナの人々は虐げられる。私たちだけでは、特にパレスチナの人々が虐げられることはない。

ただ、この言葉が正しいか正しくないかは問題ではない。重要なのは、数々の社会課題がある中で、自分が真に解決したいと思っているものを解決するために、いかに多くの人を巻き込めるかどうかだ。その手段としての「あなたの沈黙がパレスチナを殺す」という言葉は人々の心に刺さり、解決に向けて大いに役立つに違いない。

「いじめを見て見ぬふりをする人も、いじめをする人と同じ」

小学生の頃、なぜこのような言い方をされたのか、今なら分かる気がする。大人たちはいじめをなくすために、私たちのエネルギーを求めていたのだ。「勇気」ともいわれる、私たちが持つかけがえのないエネルギーを。

(※)「社会課題に傾けられるエネルギーに限度がある」と書きましたが、「限度はない」という意見も理解できます。とりわけ私は市場主義者が持ち出す「(思いやりの心といった)愛情を真に必要な場面で使えるよう節約するためにできる限り市場原理を活用すべき」との意見が嫌いです。愛情や倫理観は使って減るものではなく、むしろ実践の中で育っていくものです。同じように、先述のエネルギーも有限ではなく、発揮することによって培われていくものなのかもしれません。

マイケル・サンデル『それをお金で買いますか』
早川書房 p.184以降参照

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