確実な知識

先日、三木那由他『言葉の風景、哲学のレンズ』を読んだ。

前作『言葉の展望台』で三木さんの言葉に初めて触れた。言語哲学者として、私たちの日常会話を学問の枠組みを使って紐解いていく内容で、とても面白かった。同時に三木さんはこの本で、トランスジェンダーの女性として、今の社会への(合理的な)不満も綴っている。

『言葉の風景、哲学のレンズ』も基本的には前作と同じ内容だ。その中に、私の心に響く言葉があった。知識と行動についての話だ。

「確実でない何かを当てにして行動を起こすことは、不安を誘うのだろう。だから、確実な知識を求めたくなってしまう。けれども、現に痛みを訴えているひとのほうは、それを聞く側が確実な知識を得るまで待っている余裕など、ないことも多い。いま、痛いのだ。いま、助けがほしいのだ。」

p.15

例えば、学校である生徒がいじめの被害を訴えたとする。学校側としてはいじめの有無は重大な問題だから、それを確実にするために慎重な調査を行うだろう。一方で、いじめの有無に関わらず、その生徒は今、心を痛めている。だから勇気を持って、助けてほしいと申告したのだ。その生徒に対して「あなたはなぜ、心を痛めているのか」と重ねて聞くことは、生徒の期待に応えるものだとは到底いえない。

三木さんは、こうも言っている。

「確信がないことには黙っておくというのは、ある意味で知的には誠実なのだろうと思う。でも、私が今後何か苦境に立たされたとき、そのひとたちを頼ることはないだろうとも思った。そのひとたちは、いま私が置かれている状況よりも、自分の知識を重視したのだ、と私には見えた。」

p.16

高校の同級生に一人、ガザで起きていることに対して行動している人がいる。デモに参加して、政治に絡んで、インスタで発信して…

もしかしたら、その人と私では、私の方がより確実な知識を持っているのかもしれない。私の考えとは相容れない部分もある。でも、確実な知識を持っているか否かよりも、”誰か”の痛みの声に対して行動することのほうが、きっとはるかに大事なことなのだろう。自分とその”誰か”との距離とは関わりなく。

私はせめて、自らの不確実な知識をここに書いていこうと思った。多様性のこと、震災のこと、法制度のこと。SNSでアルゴリズムが表示してくる人々の意見とは、異なることも多い。そうした意見を、確実な知識を得るのを待たずして、ここに書いていこうと思う。

三木さんの本は今後の投稿でも引用することがあると思う。図書館に返却してしまったが、再度手元に置いておかないと、、、

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