フィクションで真実を追い求める
19世紀、ロンドン
産業革命から始まった資本制の近代は都市に貧困をもたらした。しかし為政者は貧困問題を社会の構造としてではなく個人の責任としてとらえ、直視しなかった。エンゲルス『プロレタリアートに対するブルジョワジーの態度』に、救貧法委員の見方が記されている。
これを批判したのがディケンズだ。彼はスラムの様子を読者に伝えるのに小説を用いた。なぜありのままではなくフィクションなのか。人間の困窮を人間が書く難しさを考えてほしい。あなたは果たしてありのままに書けるのか。対象にマイクを向けることができるのか。
彼は小説の中で善人を殺した犯人をスラムに逃げ込ませた。まるで読者に「殺人鬼は許せないのにこのスラムの有様は許すのか」と訴えるように。
21世紀、日本
西加奈子『夜が明ける』(新潮文庫)を読んだ。主人公が高校時代、アキ(深沢暁)にフィンランドの俳優、アキ・マケライネンのことを教える。アキはマケライネンによく似ていた。彼はその後、マケライネンとして人生を送るようになる...
主人公もアキも親を亡くし、苦しい生活を送る。その物語は明らかにフィクションだ。アキが行き場もなく徘徊した先で出会う、マイケル・ジャクソンやチャップリン、マリリン・モンローなどに似ているだけの人たちが働くバーは、現実には存在しないだろう。細かな描写や書きぶりも、質の高い小説のそれである。
しかしだからこそ伝えられる真実がある。帯には『「当事者でもない自分が、書いていいのか、作品にしていいのか」という葛藤を抱えながら、社会の一員として、作家のエゴとして、全力で書き尽くした渾身の作品』とあるが、伝えるべき真実があるからこそ、このフィクションが作られたのだろう。
人間の困窮を、どうすれば書けるのか。
19世紀、ロンドン
当時のロンドン市長ピーター・ロウリー卿は、下層社会の存在を認めなかった。ディケンズの告発にも、それがフィクションであるが故「お話の中」「空想の中」だと言って相手にしなかった。
ディケンズはそれでもフィクションに賭けた。『鐘の音』という小説にロウリー卿のパロディ(読者にはっきりと彼を想像させる)を登場させ、こう述べる。
フィクションに書かれたスラムを現実のものとして認めない限り、フィクションに書かれたパロディを自分であると主張できない。ディケンズはこうして、フィクションを通し真実を伝えることに成功したのである。
21世紀、日本
私たちはこうしたフィクションに触れた際、ロウリー卿のようにフィクションであることに胡座をかくのではなく、その裏にある真実を追い求めなければならない。たとえ小説の設定が現実離れしていて、表現の一つひとつがとても文学的であったとしても。
何より一人でも多くの人が、こうしたフィクションを(朝井リョウ『正欲』や村田沙耶香『地球星人』、そして西加奈子『夜が明ける』を)読む人であってほしい。
『夜が明ける』が伝えたかった真実とは何か。思いを至らせながらこの記事の終わりとしたい。
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