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Obbligato:社内報に見る「東映の支柱」④

「衣裳係さん」(社内報『とうえい』1960年1月20日発行第25号)

 東映行進曲が次の章に移る前、今回は、昔の東映社内報記事「東映の支柱・衣裳係さん」を紹介いたします。東映時代劇全盛期の京都撮影所の衣裳係責任者、三上剛(たけし)さんが登場しています。

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1958年7月社内報

 16才から2年間ほどマキノプロダクションで衣裳を手伝っていた三上さんは、戦後1947年、大映京都第二撮影所を借りて立ち上がったばかりの東横映画の衣裳責任者から誘われ、片岡千恵蔵主演『三本指の男』松田定次監督に参加します。

 それ以来、東横映画で衣裳を担当して勉強を重ね、1952年には衣裳係長に昇進し、東映時代劇全盛時代に衣裳責任者として活躍しました。

 残念ながら三上さんはお亡くなりになられており、部下だった岩逧保(いわさこたもつ)さんに当時の撮影所衣裳係のお話をうかがいました。

 1951年3月、兵庫県の利神中学校を卒業した15才の岩逧さんは、貸衣装屋の市川衣裳に入社、松竹撮影所の隣にあった、義姉の市川よし枝さんが差配する京都出張所に配属されます。そこでは東横映画への撮影衣裳の貸し出しを主に、松竹撮影所近隣の太千映画(たいせんえいが)撮影所などにも出入りしていました。前進座の映画『箱根風雲録』山本薩夫監督にも衣裳を貸し出したそうです。

 岩逧さんの話では、東横映画は、当初、大映の衣裳を担当していた京都衣裳(現・東宝コスチューム)から衣裳を借りていましたが、市川衣裳に切り替えます。東映となってから株式会社化して神戸衣裳株式会社に社名変更しました。

 1952年頃、長谷川一夫片岡千恵蔵山崎宇太郎(山崎かつら創業者)の3人は東映撮影所の前、山崎かつらの一画に、衣裳会社双葉商事(山崎社長)を創設しました。

 その動きに対応した神戸衣裳は、市川右太衛門に支援をお願いして日東一衣裳株式会社に改編、市川右太衛門の実兄が社長に就任します。

 そして、東映は、主演に合わせ双葉と日東一、交互に衣裳を発注していったとのことです。双葉衣裳で作る片岡千恵蔵の着物の裏地は人絹でしたが、衣裳道楽の市川右太衛門の裏地は絹で作ったそうです。

 岩逧さんの話では、日東一には旗本退屈男などの衣裳を手がけた衣裳考証家甲斐荘楠音もよく出入りしていた、とおっしゃっています。

 甲斐荘楠音は、大正時代に京都画壇において個性的な美人画で活躍した日本画家で、1939年から考証家として映画界に入りました。1953年第14回ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞を獲得した溝口健二監督『雨月物語』で風俗考証を担当、そこでデザインした衣裳が認められ、1956年の第28回アカデミー賞衣装部門にノミネートされます。

 市川右太衛門と懇意にしていて甲斐荘楠音は、『旗本退屈男』をはじめとする右太衛門主演映画に考証家として参加、手描き友禅の大家、後に人間国宝となる三代目田畑喜八衣裳制作をお願いするなど、大衆娯楽映画を目指す東映の衣裳に芸術性を加えました。 

1952年『花吹雪男祭り』三代目田畑喜八衣裳

1952年東映『花吹雪男祭り』渡辺邦男監督・三代目田畑喜八衣裳

 1952年東映『花吹雪男祭り』渡辺邦男監督・三代目田畑喜八衣裳

 甲斐荘楠音は、東映では、盆正月の『旗本退屈男シリーズ』全20作品、カラーになってからは『東映オールスター映画』全12作品、初ワイドカラー『鳳城の花嫁』松田定次監督、伊藤大輔監督『反逆児』『徳川家康』などの大作を中心に、わかっているだけで94作品に参加、東映時代劇全盛に衣裳考証を通じて貢献しました。『鳳城の花嫁』で甲斐荘がデザインを指示して作った腰元たちの揃いの着物はその後も数多くの作品で使用されたとのことです。

1957年東映『旗本退屈男 謎の蛇姫屋敷』佐々木康監督

1957年東映『旗本退屈男 謎の蛇姫屋敷』佐々木康監督

1959年東映『旗本退屈男 謎の南蛮太鼓』佐々木康監督

1959年東映『旗本退屈男 謎の南蛮太鼓』佐々木康監督

1959年東映『旗本退屈男 謎の大文字』佐々木康監督

1959年東映『旗本退屈男 謎の大文字』佐々木康監督

 1956年12月、経営が安定し、作品数が増加した東映は、日東一の衣裳を吸収し、日東一は解散、岩逧さんはお針子さんとともに東映に契約者として入社します。一方、双葉商事は長谷川一夫の衣裳を作る会社としてそのまま存続しました。

 当時東映京都撮影所衣裳係には、三上さんの下に、以下敬称略で、着付けなどの実務担当として上野徳三郎宮川清佐々木常久森護、京都衣裳出身の荒堀実秋、元俳優の小林勝高安彦司豊中健福崎精吾瀬下徹河合啓一などが在籍、後に松田孝松本俊和石倉元一などが入って来ました。

 作品ごとに責任者の下に二人ほど担当者が付いて現場を回しており、三上さんは実務にはほとんどタッチせず、岩逧さんは主に上野さん、佐々木さんの下で働いたそうです。甲斐荘とも仕事場でよくお茶を飲んでお話をしたそうです。

 その後、岩逧さんは、片岡千恵蔵『花の吉原百人斬り』内田吐夢監督、市川右太衛門『旗本退屈男 謎の大文字』佐々木康監督、大友柳太朗『鳳城の花嫁』松田定次監督、美空ひばり『ひばり・チエミの弥次喜多道中』沢島忠監督、中村錦之助『浪花の恋の物語』内田吐夢監督、大川橋蔵『新吾十番勝負』松田定次監督、鶴田浩二『いれずみ判官』沢島忠監督、佐久間良子『大奥㊙物語』などを担当します。

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大川恵子と岩逧さんと三上さん

 1964年2月東映京都テレビプロダクションが創設されると、時代劇の舞台はテレビにうつり、ベテランの上野小林、新人の石倉がテレビプロに移りました。テレビプロでは独自に衣裳を制作し、足りないものを東映から借り、徐々にテレビプロにも時代劇衣裳が貯まっていきます。

 京都撮影所の映画作品が時代劇から任侠、ヤクザへと変わると衣裳も現代物に変わり、現代衣裳を東京衣裳から借りる頻度が増えてきます。

 1965年2月にはNET以外の局制作ドラマを受注するために東映京都制作所(1976年7月から東映太秦映像)が作られましたが、東映の衣裳を使い、着付けなどは東京衣裳に任せました。

 そして、東映の時代劇映画撤退とともに、三上さんは1967年の『続大奥㊙物語』を最後に引退しました。

 岩逧さんも、現代劇で、鶴田浩二『渡世人列伝』、池玲子『温泉みみず芸者』鈴木則文監督、千葉真一『激突!殺人拳』小沢茂弘監督、高倉健『冬の華』降籏康男監督などの現代劇、そしてロバート・ミッチャム『ザ・ヤクザ』シドニー・ポラック監督まで数多くの作品を担当します。

岩逧保と高倉健

高倉健と岩逧さん

 テレビ時代劇でも着付けとして活躍した岩逧さんは、1980年9月、映画村の写真部へ出向、定年後も映画村で働き、2003年5月退職しました。女優の三島ゆり子さんは、岩逧さんが撮影所の着付けから映画村に移って残念だったと話しています。

 岩逧さんには、様々なお話をうかがいました。ありがとうございました!

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岩逧保さん

 1978年、京都撮影所は、テレビドラマ『吉宗評判記 暴れん坊将軍』の制作を請け負いました。創立以来、継承してきた撮影所の着物は、ここからテレビ時代劇でフルに活用されるようになっていきました。

 三上さんの弟子、森護さん(2004年死去)が東映40年社史『クロニクル東映』で衣裳について語っています。

クロニクル東映 森護1

クロニクル東映 森護2

1992年『クロニクル東映Ⅰ』より

 1990年10月東映京都テレビプロダクション解散し、その衣裳は撮影所に引き取られました。また2016年9月には東映太秦映像解散、撮影所に統合します。

 東映京都撮影所俳優会館にある衣裳部屋は、時代劇全盛期の面影を残しています。ここから数々の名作と共に数々の素晴らしい衣裳が生まれました。

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着付け場

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足袋棚

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紐棚

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今も続くお針子さん

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衣裳部屋の隅にある、三上さん作成の参考資料スクラップ

 三上さんが引退した後の京都撮影所の衣裳責任者は、佐々木常久森護豊中健松田孝、そして古賀博隆と代々受け継がれてきました。その技術と知識、資料、そして、東横映画、東映草創期から現在に至るまでこの撮影所で作られた衣裳は、彼らの努力で、今に至るまで大切に保管継承されています。

1950年東横『旗本退屈男捕物控 七人の花嫁』松田定次監督

1950年東横映画『旗本退屈男捕物控 七人の花嫁』松田定次監督